「日野商人」の流れを汲む「株式会社 さわや」

「あぷりのお茶会」へようこそ!

 

130801kusatubusawaya

 

 

保護色(?)のような写真ですが

いただきもののおまんじゅうです。
一瞬、麩まんじゅうかな?、とも思いましたが
そうではなくて草餅のようなものでした。

 

このおまんじゅうの入っていた袋には
「草つぶ」という名前が書いてあったのですが
これは「つぶあんの草餅」という意味なのかもしれませんね。

 

おまんじゅうをアップしてみたものが、次の写真です。

 

130801kusatubu

 

 

 

日野商人の流れを汲む「さわや」

作っているのは「株式会社 さわや」とあります。

 

「株式会社 さわや」について、ホームページに書いてあることを
要約してみますと、だいたい次のようになります。

 

近江の日野商人澤屋の流れを受け継いで
千葉県の木更津市で代々雑穀問屋をしていたお店が
明治期に、東京神田の泉町に甘味何処「梅月堂」を
開業するも、終戦とともに木更津市に戻ることに。
そこからまたポン煎餅を焼いて行商しながら
さわや製菓製パンを再興した。

 

この「さわや製菓製パン」を再興した人が
現在の「株式会社 さわや」の先代だということです。

 

 

 

「近江商人」のなかの「日野商人」

と、ここで耳慣れない言葉が出てきました。
「近江商人」という言葉はよく耳にしますが
「日野商人」って、なんでしょう?

 

「近江商人」とは、天秤棒をかついだ一介の行商人から
豪商になっていった近江の商人のことをさす言葉ですね。

 

「近江商人」といってもその出身地から、「八幡商人」
「湖東(五家荘)商人」「日野商人」とわかれているのだそうです。

 

時代的には「八幡商人」から少し遅れたのが「日野商人」。
日野は中世から日野市があり
蒲生氏の城下町として商工業が栄えたといいます。

 

蒲生氏の伊勢松坂や会津への領地替えもありましたが
それでも蒲生氏と日野の人々とのつながりは密接であり
途切れることはありませんでした。

 

 

 

蒲生家断絶の逆境により全国へ行商に

そんな深いつながりも、寛永年間の
蒲生家の断絶によって事情が一変してしまいます。

 

日野の町は一時、活況を失うことになりました。
しかしその逆境の中にもかかわらず、といいましょうか

 

逆境の中だからこそ、「日野商人」はますます奮起して
全国への行商に励むことになったのです。

 

 

 

幕府の公認

「日野商人」は諸国商品流通の便益を提供するとして
幕府の公認するところとなります。

 

元禄3(1690)年には幕府による売り掛け代金の回収保障と
東海道・中山道における特約旅館制度を二本の柱とする
日野大当番仲間を日野町の全商人を集めて結成するに至ったのです。

 

そしてその活動の場も、東北から関東、東海道と
広がっていったそうです。

 

 

 

「日野商人」の伝統に違わない「さわや」 

という「日野商人」の流れをくんでいるのが
今日のおまんじゅうを作っている会社
「株式会社 さわや」だったのです。

 

そう聞きますと、最初の「株式会社 さわや」の
ホームページに書いてあった
終戦で神田から木更津に戻った後に

 

また行商から始めて現在の会社を作るに至ったということが
ことのほか、心に沁みてくるようです。

 




スポンサードリンク



コメントを残す