「赤坂プリンス クラシックハウス(旧李王家東京邸)」で暮らした李垠と李方子、そして李玖

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李王家東京邸

前回は、赤坂プリンスホテルの旧館として親しまれてきた建物が
今年の夏「赤坂プリンス  クラシックハウス」とその名も新たに
レストラン、結婚式会場としてお目見えするというお話でした。

 

前回の記事の主役は「赤プリ旧館」でしたが、今日の主役は
その「赤プリ旧館」で暮らしていた御夫妻のお話です。

 

とはいえ勿論「赤プリ旧館」で生活をしていたわけではなく
その前身である「李王家東京邸」と呼ばれていた頃のこと。

 

 

kyurioketokyotei     「李王家東京邸」(写真/「赤坂プリンスホテル」

 

 

ここは、以前ブログで紀尾井坂」を紹介した時に
お伝えしましたように、紀伊徳川家のお屋敷があった場所です。
(千代田区紀尾井町1−2)

 

 

kioizakaup   「紀伊徳川家」「尾張徳川家」「井伊家」江戸時代の地図

 

 

1884(明治17)年には、ジョサイア・コンドルの設計により
北白川宮邸が建てられましたが、1912(明治45)年に北白川宮は
港区高輪に移った為、1924(大正13)年、李王家に下賜されました。

 

一つ建物が時の流れとともに、名前を変えていきます。

 

1930(昭和5)年 「李王家東京邸」
*    
1955(昭和30)年 「赤プリ旧館」
*    
2016(平成28)年 「赤坂プリンスクラシックハウス」

 

今日お話しするのは「李王家東京邸」が出来た当初に
暮らしていた李垠と李方子の御夫妻のことです。

 

 

150910kioizaka             「紀尾井坂」

 

 

 

夫・李垠は大韓帝国の皇太子

夫の李垠(り ぎん/イ ウン)は、大韓帝国最後の皇帝・
高宗(こうそう)の第七男子として1897(明治30)年10月20日に誕生。

 

1907(明治40)年7月に大韓帝国の皇太子になるも、朝鮮半島一帯
の統治を検討していた日本政府の招きにより同年12月、日本に留学。
伊藤博文らの扶養を受けることになりました。

 

 

rigin             李垠(り  ぎん)

 

 

李垠は、1910(明治43)年の日韓併合により身分は王世子、
日本の皇族に準ずる王族との待遇となり、敬称は「殿下」。

 

学習院、陸軍士官学校を卒業した李垠は大日本帝国陸軍に入り
近衛歩兵第二旅団長などをへて陸軍中尉になっています。

 

 

 

妻・方子は梨本宮守正王の第一女子

妻の李方子(り・まさこ/イ・バンジャ)は1901(明治34)年
11月4日に、梨本宮守正王と伊都子妃の第一女子として生まれました。

 

昭和天皇のお妃候補の一人でもあった方子は、学習院女子中等科
在学中の15歳の時に、梨本宮家の大磯別邸滞在中、何気なく手に
した新聞記事で、自らの婚約を知りショックを受けたといいます。

 

李垠と、方子の結婚は日韓併合後の「内鮮一体」(日本人も
朝鮮人も、全て日本国民)を目的とする政略結婚でした。

 

 

rimasako            李方子(り まさこ)

 

 

この結婚は天皇の決定によるとされていましたが、実際は方子の
実家、梨本宮家から朝鮮総督に縁組を申し込んだものだったそうです。

 

(小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記ー皇族妃の見た明治・
大正・昭和』小学館 2008年)

 

昭和天皇の妃となった久邇宮良子(くにのみやながこ)は
方子の父方のいとこにあたります。

 

 

 

最初の子を失う

婚約から4年後の1920(大正9)年4月28日、東京六本木の鳥居坂に
あった東京の李王邸で挙式、二年後の1922(大正11)年には
二人の最初の男の子・晋(しん/チン)が生まれます。

 

李垠・李方子夫妻は、1923(大正12)年4月25日
8カ月の晋を連れての2週間の朝鮮旅行に出かけました。

 

旅の最後の夜、お別れの晩餐会を終えて部屋に戻ってみると晋は
青緑色のものを吐き続け、その3日後に短い命を終えてしまいます。

 

医師達の説明によれば、晋の死因は急性消化不良ということ
でしたが、日韓双方で暗殺説がささやかれました。

 

 

akasaka3             「李王家東京邸」

 

 

 

李垠の父の死

そもそも、二人の結婚は当初、1919(大正8)年1月25日に
予定されていたのですが、直前に李垠の父である高宗が
脳溢血で死去したために延期され、翌年となりました。

 

高宗の死も日本側の陰謀説による毒殺説があり
これが「三・一運動」という、日本からの独立運動の
引き金になったともいわれています。

 

 

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李垠の父の妃の死

その上、高宗のみならず高宗の妃(李垠の母親ではない)
閔妃・明成皇后(めいせいこうごう/ミョンソンファンフ)
も1895(明治28)年10月8日に殺害されています。

 

長州出身の軍人、三浦梧楼という一国の公使が、在任国の宮廷で
皇帝の妃を殺害するという閔妃(びんひ/ミンヒ)暗殺事件です。

 

当時は謎に包まれていた事件を1988(昭和63)年に角田房子が
『閔妃暗殺』という小説に書きベストセラーになったことにより
この事件が初めて日本で広く知られるようになったということです。

 

 

akasaka43            「李王家東京邸」

 

 

 

幼い李垠を扶養した伊藤博文も

また1909(明治24)年10月26日には、中華人民共和国のハルビンで
伊藤博文が、大韓帝国時代の朝鮮の独立運動家・安重根
(あん  じゅうこん/アン  ジュングン)に暗殺されています。

 

(伊藤博文の暗殺に関しては
安重根は犯人ではないとの説もあるようです)

 

1895(明治28)年  李垠の父の妃の死
1909(明治42)年  日本に来た李垠の世話をした伊藤博文の死
1919(大正8)年    李垠の父の死
1923(大正12)年  李垠の最初の子、晋の死

 

 

150408kumoakapuri     ほぼ中央に見える建物が赤坂プリンスホテル新館

 

 

 

終戦

そんな李垠と李方子のもとに2度の流産の後に第二子・
玖(きゅう/ク)が誕生したのが1931(昭和6)年12月29日。

 

六本木の鳥居坂の御用邸から、赤坂に移った直後です。
1926(大正14)年から始まった洋館の建築は
1930(昭和5)年に完成していました。

 

新居で玖が生まれた喜びもつかの間、時代は敗戦を迎えることに。
1945(昭和20)年8月15日、終戦の放送を聞いた李方子は李垠に
「殿下おめでとうございます」と言います。

 

しかしそれを聞いた李垠は、沈痛な面持ちのまま何も
答えることはなかったといいます。(「読売新聞」1989年5月2日)

 

 

akasaka27             「李王家東京邸」

 

 

 

日本国籍の喪失、無国籍に

李垠・李方子夫妻は、第二次世界大戦後は
王族としての身分と日本国籍を失い
無国籍の在日韓国人として登録されることになります。

 

生活にも困窮し、彼らの家「李王家東京邸」を貸家にだし
参議院議長公邸として利用されたりもしましたが
1952(昭和27)年、ついに邸宅を売却します。

 

戦後、日本で最大の地主は天皇家。
その総面積は、東京、神奈川、香川、佐賀、鳥取の合計面積にも
匹敵したといいます。(「李王家邸(赤坂プリンスホテル別館)」)

 

皇籍離脱となった旧宮家は、課せられた巨額の財産税
のために邸宅を手放すしかありませんでした。

 

 

kyurioketokyotei             「李王家東京邸」

 

 

 

李王家邸の売却、プリンスホテルの誕生

それらの邸宅を買い集めたのが、西武グループの堤康次郎。
この地から高輪に移った北白川宮の邸宅は新高輪プリンスホテルに
なりましたが、旧宮家は次々とプリンスホテルに姿を変えて行きました。

 

朝香宮軽井沢別荘   千ヶ滝プリンスホテル(皇室専用)
   竹田宮邸       高輪プリンスホテル
   北白川宮邸      新高輪プリンスホテル
   東伏見宮別邸     横浜プリンスホテル
   李王家        赤坂プリンスホテル
   朝香宮邸       住民の反対により中止、庭園美術館に
            (「李王家邸(赤坂プリンスホテル別館)」

 


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2007年まで使われていたプリンスホテルのこのマークは
菊の御紋、菊の花をアレンジしたものです。

 

「李王家東京邸」も31室の客室をもつ赤坂プリンスホテルとなり
1955(昭和30)年開業、ここに赤坂プリンスホテルの歴史が始まります。

 

 

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国籍回復

李垠は、1950(昭和25)年には来日した大韓民国初代大統領・李承晩
(リ・ショウバン)と会談したおり、故国への帰国の希望を述べるも
彼を快く思わない大統領の言葉に、諦めるほかはありませんでした。

 

失われた日本国籍が回復したのは1957(昭和32)年5月18日のこと。
日本国籍取得後、李垠・李方子夫妻は息子・玖の留学している
アメリカに行きますが、李垠は翌年3月に脳梗塞で倒れてしまいます。

 

一時は回復して李方子と共に海外にも出かけますが再び入院。
そのような状態だった1962(昭和37)年12月15日、
韓国政府から李垠・李方子夫妻に大韓民国国籍の回復が告示されました。

 

 

akasaka10              「李王家東京邸」

 

 

 

悲願の帰国

そして翌年の1963(昭和38)年、李垠・李方子夫妻の
長年の念願だった帰国がやっと叶いました。

 

李垠・李方子夫婦の生活費は韓国政府から支出され
ソウルにある李氏朝鮮の宮殿・昌徳宮(チャンドックン)
に住むことが許されます。

 

大統領・李承晩(リ・ショウバン)政権による激しい排日政策で
反日感情は極限に達していたものの韓国の人々は1963(昭和38)年
11月22日に帰国した李垠・李方子夫妻を沿道で大歓迎で出迎えます。

 

しかし念願がかなって帰国した李垠は、脳血栓と脳軟化症で意識
はなく、その歓迎ぶりも知らずにベッドのまま病院に運ばれます。
そして7年後の1970(昭和45)年5月1日、72歳で亡くなりました。

 

 

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方子は韓国に帰化し活躍

一方、韓国に帰化した李方子は、李垠の死後も韓国にとどまり
当時韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育に取り組んだり
韓国にいる日本人妻達の集まりを作るなどして精力的に活動します。

 

知的障害児施設『明暉園(めいきえん/ミョンヒウォン)』等
の施設を設立していますが、「明暉」は、李垠の雅号。

 

彼等の結婚は「内鮮一体(日本人も朝鮮人も、全て日本国民)」
との政略結婚でしたが、李方子は夫・李垠の国の人間と
なりきろうと帰化をして生涯、夫に添い遂げました。

 

李方子は死の前年に、社会福祉事業の資金を
調達するために日本を訪れています。

 

その際、体調を崩して二カ月ほど宮内庁病院に入院しましたが
李方子がそのまま日本に留まることはありませんでした。

 

そして翌1989(平成元)年4月30日という、過去の歴史ではなく
まさに私達が生きている同時代に87歳で息を引き取ったのです。

 

 

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祖国に帰るも意識はなく

「時代の荒波に飲み込まれ、翻弄された」という月並みな
形容が陳腐に思えるほどの李垠と李方子の生涯でした。

 

11歳で人質のようなかたちで日本にやって来た李垠を襲う
幾つもの死と、国籍喪失という波瀾万丈の日々。

 

日本にきて56年後、国籍回復後にやっと故国に帰れたものの
その時にはもうすでに意識がない状態だった李垠の無念さは
想像にあまりあります。

 

李方子との間が睦まじかったということが
せめてもの救いでしょうか。

 

 

350x211_ZM9V9102_02             「李王家東京邸」

 

 

 

李玖の最期も「赤坂プリンスホテル」

とここで「李王家東京邸」で暮らした李垠・李方子夫妻の
話は終わるのですが、彼等の成人した唯一の子どもである
李玖について少々触れてみましょう。

 

李玖は14歳で終戦を迎えた後、1950(昭和25)年にアメリカ
マサチューセッツ工科大学(MIT)に入学します。
卒業後もニューヨークにとどまり1958年にジュリアと結婚。

 

1963(昭和38)年に父母と共に韓国に帰国して
大学で建築工学の講義をしたり、会社経営にも
手を染めましたが、1979(昭和54)年に倒産。

 

 

rikyu          李玖(り  きゅう)とジュリア

 

 

1981(昭和56)年には離婚し、その後来日して梨本家の
世話を受け、渋谷区のマンションで暮らしていました。

 

2005(平成17)年7月18日、李玖のいとこにあたる梨本家の方が
李玖の赤坂プリンスホテル滞在が1カ月を過ぎたために訪れます。

 

その時すでに、李玖の息は絶えていました。
死因は急性心不全。
亡くなったのは2日前の7月16日と推定されています。

 

 

 

「王家の人間ではなく、個人、李玖」

私は冒頭に今日の主役は、李垠・李方子御夫妻だと書きました。
「李王家東京邸」といった場合にはそうではあります。

 

ですがこと建物に限っていうならば、この場所で生まれ
この地で亡くなった李玖の方がむしろ主役といえるのかもしれません。

 

 

1001983721              幼い頃の李玖

 

 

「私はもはや、王家とは関係がない、個人、李玖にすぎない」
と李玖は常々言っていたといいます。

 

王家の人間であることの良いこともそうでないことも全て含めて
この言葉は、李玖の偽らざる本心という気が私にはします。

 

李玖は韓国王家の血を引く人間とはいえ
韓国の地で生まれ11歳まで育った父の李垠とは
かなり異なった感覚で育ったのではないでしょうか。

 

 

2010akasakaprincehotelillumination2010年12月 赤坂プリンスホテル
最後のクリスマスツリー

 

 

 

最期の場所

ジュリアとの間に王家の跡継ぎが生まれなかったことも災いしてか
韓国に永久帰国した李玖は「故国」に完全に馴染むことができずに
精神を疲弊させ、日本との行き来を繰り返します。

 

そして当時、渋谷の小さなマンションに住んでいた李玖は
赤坂プリンスホテルで死を迎え、韓国に埋葬されました。

 

渋谷に自分の住む場所はあっても、実家に帰って羽をしばし
休めたい、いえ永遠に……、そんな気持ちが李玖の心の深い
ところにあったと考えるのは穿ち過ぎているかもしません。

 

 

o03700483121517526692011年3月31日
赤坂プリンスホテル最後の日

 

 

 

李玖のふるさとは

李玖の最期の場所が赤坂プリンスホテルだったことに
私は李玖と赤坂の縁の深さを感じずにはいられません。

 

李玖、あなたの故郷はここだったのではないでしょうか?
生まれ育ったこの場所が、あなたにとっては
唯一、安らげる居場所だったのではないかと。

 

李玖が亡くなった6年後、彼のあとを追うように
赤坂プリンスホテルは55年の歴史を閉じました。

 

その後の開発で、この地は名前も「赤坂プリンスホテル」から
「東京ガーデンテラス紀尾井町」になりこの夏生まれかわります。

 

「赤坂プリンス」は、李玖が生まれ育った「旧李王家東京邸」の
新しい名称「赤坂プリンス  クラシックハウス」に残るのみです。

 




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