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古九谷と鍋島家の関係
今回は、前回の古九谷論争に関して
触れられなかった部分をご紹介します。
(「古九谷論争『古九谷の真実に迫る』から」)
九谷焼は、加賀藩とその支藩である大聖寺藩の
二つの前田家なくして語ることはできませんが、
実はそれに加えてもう一つの家が関わっていました。
それは日本初の磁器、有田焼をつくりだした
ともいうべき佐賀(肥前)藩の「鍋島家」です。
伊万里焼「色絵蓮池翡翠文皿」
江戸時代 17世紀中葉 径36.4㎝ 日本民藝館
「鍋島焼」「伊万里焼」「有田焼」
この3つの名称について、混乱があるといけません
ので、最初に言葉の説明を簡単にしてみましょう。
九州の有田で焼かれているものは有田焼と呼ばれます。
江戸時代、有田焼は伊万里津(港のこと)から出荷
されたので「伊万里焼」ともいうようになりました。
ということで「有田焼」=「伊万里焼」ですね。
また有田焼の中でも、鍋島藩が商品としてではなく
将軍家へ献上等のために、藩窯で独自に焼かせた
ものを指して「鍋島焼」といいます。
(ただし「鍋島焼」の名称は大正時代以降にできたもの
で当時、鍋島藩内では「大河内焼(おおかわちやき)」
「大河内御磁器」といわれていたといいます)
現在は鍋島藩窯はありませんが
鍋島焼という名称は残り焼かれています。
今回のお話は勿論、鍋島藩窯の鍋島焼のこと。
磁器づくりのきっかけは鍋島直茂から
日本で初めて焼かれた磁器の有田焼は、鍋島直茂が
1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、捕虜として
連れてきた朝鮮人陶工・李参平(鐘ケ江三平)
がつくりました。
佐賀藩の鍋島藩窯は、1652〜1654年(承応年間)に
有田の岩谷河内(いわやごうち)に御用窯を作り、
1661〜1672年(寛文年間)に伊万里の
大川内山(おおかわちやま)に移転しています。
1651(慶安4)年6月に、徳川家光の内覧を受けた後、
鍋島焼が正式に献上されていますので、その時点では
もう実質、鍋島藩窯はできていたことになります。
鍋島焼「青磁染付桃文皿」
元禄(1688-1704年)
口径14.7cm 高3.7cm 高台径7.4cm
佐賀藩 初代・勝茂、2代・光茂
朝鮮出兵の際に朝鮮人陶工を連れ帰った鍋島直茂は
肥前佐賀の領主として鍋島家の基礎を築いた「藩祖」
とされており、初代藩主は、直茂の子・勝茂。
勝茂の正室は秀吉の養女で、側室は家康の養女です。
勝茂の子・忠直は20代の前半に亡くなったこと
から、2代藩主は、忠直の子・光茂が継ぎました。
光茂の正室は米沢藩2代藩主・上杉定勝娘の虎姫。
鍋島直茂(1538-1618) 朝鮮人陶工を連れてきた
*1勝茂(1580-1657) 鍋島藩窯を作った
* 忠直(1613-1635)
*2光茂(1632-1700)
初代・勝茂の娘の子「虎」が、2代藩主・光茂の妻
佐賀藩初代藩主・勝茂の娘「市」は
出羽米沢藩・2代藩主の上杉定勝に嫁ぎ
「徳」と「虎」という娘をもうけます。
また定勝には、市が母親ではない
「亀」という娘もいました。
*鍋島直茂(1538-1618)
* |
*1勝茂(1580-1657)
* |
* _______
* | | 米沢藩2代藩主
* 忠直(1613-1635) 市ーーーー上杉定勝ーー◯
* | | | |
* | 徳 虎 亀
* |
* |
*2光茂(1632-1700)ーー虎
* |
* |
* 3綱茂(1652-1707)
市の娘「虎」は、2代藩主となった光茂とは
いとこにあたりますが、光茂に嫁いでいます。
鍋島家からきた母の実家へ戻ったかたちになりますね。
ここまででは前田家は登場していませんが
虎の姉・徳と、妹・亀の二人が
前田家に輿入れをしているのです。
しかも、大聖寺藩の初代と2代藩主という兄弟に、
徳と亀の姉妹が嫁いだということになります。
それでは次に、前田家をみてみましょう。
九谷焼の窯を作った前田家
加賀藩前田家の4代藩主までの系図は以下の
通りで、前田利家の子・利長が2代藩主です。
3代藩主は2代藩主の弟・利常が継いでいます。
別の弟の利孝は、支藩の七日市藩の初代藩主。
加賀藩3代藩主の子、光高が4代で、
その弟・利次が、支藩である富山藩初代、
別の弟・利治も、支藩の大聖寺藩の初代となっています。
* 1前田利家(加賀)
* |
* |
* ________________________________________________
* | | | | | |
2利長 利政 知好 3利常 1利孝 利貞
(加賀) (加賀) (七日市)
* |
* |
* _______________
* | | | |
* 4光高 1利次 1利治 2利明
* (加賀) (富山) (大聖寺)(大聖寺)
* |
* 3利直
* (大聖寺)
濃いブルーで表示をした、「利治」が藩主の
大聖寺藩が、古九谷を焼いた窯を作りました。
この大聖寺藩は、1871(明治4)年の廃藩置県で
大聖寺県となるまで(後に金沢県に編入され、
石川県と改称)14代にわたり前田家が治めています。
上の図から、七日市藩と富山藩を除いて、
九谷焼に関わる大聖寺藩と加賀藩のみ
を抜き出してみると下のようになります。
* 1前田利家
* |
* ___________________
* | |
* 2利長 3利常
* |
* __________
* | | |
* 4光高 1利治 2利明
* |
* 3利直
加賀藩の3代藩主・利常の子・利治が大聖寺藩の
初代となり、利治に子どもがなかったことから
2代は、利治の弟・利明が継ぎました。
九谷焼「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)」
口径 18.9cm 底径 7.9cm 高さ 10.2cm
石川県九谷美術館蔵
加賀藩・利常の支援により大聖寺藩がつくった九谷焼
九谷焼の初期の作品、現在「古九谷」と呼ばれ
ているものが焼かれていたのは、大聖寺藩の
初代・利治と、2代・利明の兄弟の時代にあたります。
父である加賀3代藩主・利常の支援によって
利治、利明兄弟が関わったことになりますが
50年後に突然、窯は閉鎖。
その理由は不明ですが、大聖寺藩・2代藩主の利明の
死が影響したともいわれるほどで、加賀藩主の父と、
子の大聖寺藩主の利治、利明の強い関わりが伺えます。
「鍋島家」の二人の孫娘は「前田家」へ
古九谷の窯をつくった大聖寺藩の二人の
藩主に嫁いだのが、上杉定勝の娘でした。
初代藩主・利治の妻には「徳」、
2代藩主・利明には「亀」と。
家系図というのは、なんとも分かりづらいもの
ではありますが、前田家と鍋島家を並べて
書いてみました(余計、わからない?)。
* 1前田利家
* |*
* _______________
* | |
2利長 3利常
* |
____________________________
* | |(大聖寺藩) |(大聖寺藩)
* 4光高 1利治ーー徳 2利明ーー亀
*
* ↑ ↑
* 鍋島直茂 ↑ ↑
* |
* 1勝茂 ↑ ↑
* |
* 忠直ーーー 市ーーーーーー上杉定勝ーー◯
* | | | |
* | 徳 虎 亀
** |
* | ↓
* 2光茂ーー虎 ← ←
「雛人形」次郎左衛門雛 預玄院所縁(よげんいん)「成巽閣」
上の写真は「鍋島家」の、こちらは「前田家」のお雛様です
3姉妹の2人は「前田家」、1人は「鍋島家」へ
これを上杉定勝からみてみますと、娘の
徳の夫が、前田利治(大聖寺藩・初代藩主)
虎の夫が、鍋島光茂(佐賀藩・2代藩主)
亀の夫が、前田利明(大聖寺藩・2代藩主)となります。
* 鍋島勝茂の娘
* 市ーーーーーーーー上杉定勝ーーーーーー◯
* | | |
* 徳ー前田利治 虎ー鍋島光茂 亀ー前田利明
鍋島光茂からいいますと
前田利治(大聖寺藩・初代藩主)は、妻の姉の夫、
前田利明(大聖寺藩・2代藩主)は、妻の妹の夫、
ということ。
上杉家を間に挟んで、鍋島家と前田家の
深い繋がりが生まれることになったのです。
鍋島家と前田家と、それぞれの焼物
もっとも両家の親しい関係は、この婚姻によって
生じたというよりは、それ以前からの近い関係がこれら
の婚姻を成り立たせたという方が正確かもしれません。
加賀藩・2代藩主の利長の後を、利常が継ぎ
徳川秀忠の娘・珠姫を迎える際にも、前田利長は
慶事に必要な唐物を、鍋島勝茂に依頼しています。
前田利長とその子・利常が、鍋島勝茂と親交があった
事実に加え、複数の婚姻によって結ばれた両家の繋がり。
それは、それぞれの焼物にも影響を与えたと
考える方が、むしろ自然に思えます。
スタートについた「古九谷論争」
これについて中矢進一(石川県九谷焼美術館副館長)氏
は「古九谷の真実に迫る」の中でこのように述べています。
多くの方も同じお考えと思われますので
これをご紹介して終わりましょう。
*「それぞれを領する大名同士が姻戚関係にあった
* という歴史的事実、背景といったものを踏まえた
* 上での論考というものが、必ずこれから以降は
* 必要になってくるんだろうというふうに
* 考えております」
*「この問題は短兵急に結論を出す問題ではなくして
* 両産地の、いわゆる交流のもとにそういった
* ものが生まれたんではないか、そしてこの加賀
* 前田家という加賀文化を育んだ前田家を抜きに
* して、最高級品である古九谷の百花手だとかは
* (略)生まれてこなかったのではないかという
* 指摘もされております。
* 真の意味での古九谷、それは一体何か、
* これを探る作業が色々スタートしたんだ
* というふうにいえるのではないでしょうか」
* (参考 /「古九谷の真実に迫る」)