「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!
「古九谷の真実に迫る」
「石川県の九谷焼の初期の古九谷は佐賀県の有田で
焼かれていた」という「古九谷論争」は、昭和20年代
に始まり現在に至るまで続いているようです。
有田と九谷双方での発掘調査により、古九谷は有田で
焼かれたもの、という説が有力になりました。
これに疑問を感じる人々の意見として今日は
「古九谷の真実に迫る」というサイトから
いくつかの視点をご紹介したいと思います。
定説となっている「伊万里焼古九谷様式」
まずその前に、伊万里焼の流れを簡単に見て
みますと、朝鮮出兵の際に鍋島直茂が連れて
来た朝鮮人陶工・李参平が陶石を発見し、
日本で初めて磁器を焼いたのが1610年頃。
最初は藍色のみで模様が描かれていたものに
色が加わって、後に「鍋島」「柿右衛門」
「古伊万里金襴手」と発展するのですが
問題は緑色の「初期色絵(古九谷)」の部分です。
古九谷は「有田焼の初期色絵」との位置付けに
なっていて、「伊万里焼古九谷様式」
(「有田古九谷様式」ともいう)研究者の間では
定説なっているということなのですが。
*
1600年 _____________________
* 初期伊万里
* 初期色絵(古九谷)
1650年 _____________________
* 大河内山 南川原山 内山・外山 武雄市など
* 鍋島 柿右衛門 | |
* | | | |
* | 古 伊 万 里 金 蘭 手
1700年 _____________________
「古九谷の真実に迫る」は全部で10人の方
との対談形式でまとめられていて
詳しくはサイトをご覧いただくとしまして、
私が興味深く思った点を箇条書きにしてみました。
「古九谷の真実に迫る」
1 意外なことに、古九谷論争は、有田と九谷の
* 産地間の論争ではないということ
二羽 喜昭(『古九谷論争の真実』著者)
*「ひとつおかしいのは、この古九谷論争って
* いうのは、石川県の産地と、有田の産地で
* 争ったものじゃないんです。
* これはいわゆる、石川県と学会の対決というか、
* あるいは伊万里焼の研究者のグループとの対決
* と言ってもいいものだったんですよね」
初期伊万里「染付山水図大鉢」江戸時代
重要文化財 (写真/「文化遺産オンライン」)
2 最初から「古九谷は全て有田焼であった」との
* 結論ありきで行われた学会だったとの指摘
二羽 喜昭(『古九谷論争の真実』著者)
*「1991(平成3)年に九州の陶磁文化会館で
* 学会が2日間にわたって行われたんですけど、
* これはもうすでに古九谷を伊万里焼にする
* という前提のもとで華々しく行われたんです」
3 有田の登り窯で色絵磁器の破片が発見された
* ことから古九谷=有田になったそうですが
* そもそも九谷焼の絵付けは登り窯では焼かない
二羽 喜昭(『古九谷論争の真実』著者)
*「実はあの色絵というのは登り窯で焼くというのは
* あり得ないんですね。(略)九谷焼の特徴の上絵
* というのは登り窯で焼かないんですね。
* (略)伊万里でも上絵窯をやってきた人はたくさん
* おるわけですから、その人たちがその理論の中に
* 加わっておれば、決して、今問題になっておる、
* 伊万里焼古九谷論争っていうのは生まれなかった
* だろう。
* というのは、実体験の人がおいでるわけですから、
* そんなあんた、登り窯で焼くのなんかおかしいん
* じゃないかと言ってストップかければそれで
* 終わったはずですね。
* ところが、それがなかったばっかりに、これだけ
* エスカレートした。
* それで、なんか発言されている人たちの人選を見て
* も、色絵がわかったという人はおいでないんですね。
* だから、そういう支持に回ったんだろうと思います」
古伊万里「色絵荒磯文鉢」金襴手
江戸時代 18世紀 根津美術館蔵
4 放射化分析により、素地、絵付け共に
* 九谷と証明されたものが存在する事実
北出 不二雄(元金沢美術工芸大学学長)
*「(微量しか含まない元素を分析する、放射化分析
* という分析によって)九谷と伊万里との素地を
* 判別することができるという話がありまして
* (東京理科大学の中井泉教授により)
* 九谷であるということが分析の結果証明された」
5 有田焼の作家も、古九谷と認定された作品を見て
* 「有田で焼かれたものではない」と言っている
徳田 八十吉(重要無形文化財い 人間国宝)
*「有田焼の作家も言っているんですよ、はっきりと、
* 最近古九谷と認定されているものの中に、どう考え
* ても有田でないものが入っていると、柿右衛門さん
* も、言っているし、井上萬二さんも言っている。
* だって彼らちゃんと見りゃ分かりますからね」
6 有田と九谷では描かれるもの、描き方が異なる
北出 不二雄(元金沢美術工芸大学学長)
*「(古九谷の色絵の特色は)写実性の強い絵を
* 描いておる。
* 模様というよりは、絵を描いているというところが、
* 非常に九谷の特色として大きなものだと。
* では柿右衛門はどうだといいますと、柿右衛門も
* 確かに絵を描いております、たとえば岩に鳥が
* 止まって、そこに花木が生えておって赤い
* きれいな花が咲いている、というような模様の
* あり方、一つのパターンとなったものは全く柿右衛
* 門様式といわれる、一つの独特の雰囲気といいます
* か、そういうものを持っておりますね。
* ところが九谷の場合(略)模様というのは、
* 一つ一つ違う訳です。
* いかにも絵画、その当時の絵画からとってきた
* ような模様が描かれておる。
* 時代に応じていくらか違ってくるけれども、
* そういう模様構成のあり方というものは、九谷
* 独特のものがあるというふうに思っております」
「青い桜」と呼ばれる古九谷「青手桜花散文平鉢」
石川県立美術館所蔵
7 古九谷は一枚一枚が絵画
高田 宏(石川県九谷焼美術館館長)
*「(有田焼は)もっと様式化されたもの、そして
* 従来の周辺にある美意識と深くつながっている。
* 『青い桜』は伊万里の伝統美意識の中に生まれて
* くるはずがない、またそういうものをあれも
* 初期伊万里とか伊万里の古九谷様式だとか
* 言おうとするのは、言うも愚かなばかばかし
* すぎて、論争する気にもならない。
* たとえばピカソとゴッホが違うということすら
* 分からないような意識でしかないんじゃないか
* という、そういう気がしますね、
* だから古九谷とりわけ九谷焼全体の中で、
* 古九谷しかも青手古九谷は、ぼくはこれは
* すぐれて絵画だと思いますね。
* たまたま、描く場所が磁器の上だったわけで、
* 作品の本質としては絵画作品だと思っています」
8 有田で、1640年から20年間だけで消え不自然さ
二羽 喜昭(『古九谷論争の真実』著者)
*「柿右衛門様式というのは、だいたい1660年から、
* ヨーロッパのほうへどんどん輸出されたんですね。
* ところが、その輸出されていくものの中に、いわ
* ゆる古九谷様式というものはないんです。(略)
* それでどうしてもその前に入れる必要があって
* 入れたんだろうと。
* それから、そのいわゆる古九谷が制作された
* という期間ですけれども、1640年から1660年
* という20年の間なんですよね。
* で、この間にあのすばらしい古九谷が栄えて、
* 途絶えて、そして新しい柿右衛門様式が生まれた、
* というのは、これはどうも説明がつかないことが
* ありますね」
* 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
なおここで、有田の初期色絵について、最初に
あげたものとは異なり、初期色絵を「古九谷」
と表示しないものが陶磁器の本にありましたので
参考に載せておきます。
「有田焼の流れ」
* 初期伊万里
* (17世紀前半)
* ↓ 染付磁器
初期色絵 ↓ 色絵の誕生
(17世紀半ば)
* ↓ 柿右衛門様式
↓ (1670〜90)
?鍋島焼 ↓
* ↓ ↓ 海外へ輸出
* ↓ 日本風の作風 金蘭手様式
* ↓ 拘った絵柄 (17世紀末〜18世紀)
* ↓ 精巧な作り ↓
* 有田焼
* (19世紀 明治以降)
(じゅわ樹
「日本の陶磁器の鑑賞のコツ70」メイツ出版)
* 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
9 加賀藩と大聖寺藩の前田家の大きな関わり
荒川 正明(出光美術館主任学芸員)
*「加賀と大聖寺の前田家がおそらく、かなり関わり
* の中で作っていったのだと私も考えています。
* 特に前田藩邸から出ました五彩手の最高クラス
* ですね、百花手、幾何学手、九角手、そういった
* ものがほかの大名家には出ておりません。
* おそらく前田家の注文のもとに作られた可能性が
* 高いのではないかと思っております。
* そのような日本の陶芸史における金字塔と言われる
* ような古九谷という器を作らせていった前田家、
* その美意識と熱意には本当に驚くべきものがある
* かと思います。
* 1前田利家(加賀)
* |
* |
* ________________________________________________
* | | | | | |
2利長 利政 知好 3利常 利孝 利貞
(加賀) (加賀)
* |
* |
* _______________
* | | | |
* 4光高 利次 1利治 2利明
* (加賀) (大聖寺)(大聖寺)
* |
* 3利直
* (大聖寺)
* (利家の子・利孝は七日市支藩の初代藩主に、
* 利常の子・利次は富山支藩の初代藩主になって
* いますが、煩雑なりますので記載していません)
まとめ
以上の事柄を簡単まとめてみますと
「そもそも九谷論争は九谷と有田の産地間ではなく
石川県と学会、伊万里焼の研究者のグループとの対決」
であり「最初から『古九谷は全て有田焼であった』
との結論ありきで行われた学会」。
産地間の争いでなかったからこそ
「有田の登り窯で色絵磁器の破片が発見された
ことから古九谷=有田になったものの、
そもそも九谷焼の絵付けは登り窯では焼かない」
という重要な視点も抜け落ちてしまった。
九谷焼 吉田屋窯「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)」
石川県九谷美術館所蔵
「放射化分析により、素地、絵付け共に
九谷と証明された」ものが存在し、
「有田焼の作家も古九谷と認定された作品を見て
有田で焼かれたものではないと言っている」上に、
描かれた絵についても、中国磁器がお手本だった
伊万里の柿右衛門様式と、1つ1つが絵画のような
描き方をする古九谷とは根本的に異なっている。
しかも伊万里で1640年から1660年というわずか
20年間のみ作られただけで終わり、柿右衛門様式
へと変わっていったという流れはかなり不自然
ということになるでしょうか。
古九谷「青手土坡に牡丹図大平鉢
(あおてどはにぼたんずおおひらばち )」
石川県九谷美術館所蔵
九谷焼に関しては、加賀藩と大聖寺藩の前田家が深く
関わっていたことはよく知られていますが、実はそれ
のみならず鍋島藩との関係も重要だということです。
今日は長くなりすぎましたので、そちらは
次回にご紹介することにしましょう。