広尾の名の由来と江戸名物「狐鰻」「四の橋」古川の橋5

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「四の橋」=「相模殿橋」「薬園橋」

古川に架かる橋、今日は「四の橋(h)」のお話
ですが「四の橋」は、「五の橋」のお隣の橋
ではなく間に「白金公園橋(g)」があります。

 

現在の「四の橋」は、1984(昭和59)年、
3月に架け蹴られた橋で長さは16.2メートル、
幅は12.9メートル。

 

南麻布3丁目21と(地図では橋の上)
白金3丁目1を結んでいます。

 

橋のたもとにある、橋の名の由来が書かれたものには

「この橋は、高輪の葭見坂から麻布本町に向かう、
古い街道すじにあったという伝承があるので、初めて
架けられたのは、江戸時代よりも前のことであろう」

と記されていました。

 

 

 

hurukawanikakaruhasi天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)・
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)・
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

「よのはし」と呼ぶ方もいますし、また
「よんのはし」とも読んでしまいそうですが
冒頭の写真のように、読み方は「しのはし」。

 

江戸時代には、「四の橋」の左上あたりに
土屋相模守の下屋敷があったことから「相模殿橋」
とも、また麻布薬園が少し離れた場所にあった
ということで「薬園橋」とも呼ばれたようです。

 

 

hurukawa右寄りの真ん中あたりが「土屋釆女正(土屋家)」

 

 

青で描かれた古川に沿って「土屋釆女正
(つちやうねめのかみ)」と描かれているのが
「土屋殿橋」の名前の元となった土屋家のお屋敷。

 

釆女正(うえねめのかみ)とは官位従五位下で
釆女と呼ばれる女官の管理をする役職名で
1837(天保8)年、土浦藩土屋家は第十代の藩主・
土屋寅直(ともなお)が釆女正を叙位されています。

 

 

 

描いたのは「天現寺橋」ではなく「四の橋」

次の浮世絵は1856(安政3)年に、広重が
「四の橋」付近を描いた『名所江戸百景』の
『廣尾(広尾)ふる川』という作品です。

 

『名所江戸百景』は、歌川広重が1856
(安政3)年2月から、1856(同5)年10月
にかけて制作した連作浮世絵名所絵。

 

 

hirohurukawa-1広重『名所江戸百景』『廣尾(広尾)ふる川』
(「ボストン美術館」)

 

 

この絵に描かれた場所および描かれた橋
については、「四の橋」という説と
「天現寺橋」という方と二通りあるようです。

 

「天現寺橋」説では、現在の天現寺橋
交差点付近を描いたもので、左奥の山は
今の有栖川公園等がある丘陵地、
下を流れるのが古川としています。

 

ですが広重には『絵本江戸土産』に
『麻布古川、相模殿橋、広尾之原』という
同じ場所を描いたと思われる作品があり、

 

そちらには広重自身が「相模殿橋」
と記してありますので、「四の橋」説
が正しいようです。

 

 

sinohasihurukawa広重『絵本江戸土産』『麻布古川、相模殿橋、広尾之原』

 

 

 

「広尾」の名前の由来

広重は同じ「絵本江戸土産」に
この絵の説明として、

 

「江都第一の郊原にして人のよく知る所なり。
されば四時草木の花更に人力を仮 (か)らず
といへどとも、自然(おのずから)咲き
つづき、月の夜しがら、古への歌に見えたる
武蔵野の景色はこれかと
おもふばかり。
寂寥として余情(よせい)探し」

 

とも書いています。

 

廣尾(広尾)は、江戸時代にはピクニックの
場所でもあり、「広尾原」とも呼ばれていてここ
から広尾という地名が生まれたということです。

 

 

hirohurukawa-1橋の向こうは「麻布十番」か「広尾」か?

 

 

 

どちら側から描いた絵か?

私は『江戸名所百景」の「廣尾(広尾)ふる川』と
いう題名から、川の向こうに見える広い野原が
「広尾」だろうと思っていたのですが、

 

「広尾」ではなく「麻布十番」だとする説
もネットで散見されます。

 

となるとこの絵は、地図の下の方から上を見ている
ことになり、広がる景色は明治通り側ということに
なりますが、これは違うでしょう。

 

絵の手前が明治通り側だということは
江戸時代の地図からわかります。

 

 

こちら側から描いている 「四の橋」を渡った所にある
「狐鰻」といううなぎ屋さん

 

 

地図の上の方には「四ノ橋 相模殿橋」
と書かれていますので、そちら側が
現在の明治通りがある方ですね。

 

その「四ノ橋」を渡った所のすぐ左側に
「狐鰻(きつねうなぎ)」とありますが、この
お店が浮世絵で左側に書かれていたお店です。

 

ということで広重の2枚の絵は、地図の
上の方から川越しに広尾方面を臨んだもので
逆から麻布十番を見ているものではありません。

 

広重の絵で手前にある道は、現在の明治通りで
「四の橋」を渡った先は高輪、遠くに見えて
いるのは広尾の原ということになります。

 

 

hirohurukawa-1手前の道は、現在の明治通り

 

 

 

「狐しるこ」→「狐鰻」

広重の絵に描かれたのは、麻布田島町に
あった、二階建ての有名な料亭で
うなぎ屋さんの「狐鰻」というお店です。

 

「狐鰻」が出来る前は、「狐しるこ」という
お店があり時折、キツネが化けて買いに
くるほど美味しい、と評判のお店でした。

 

(「狸橋」のそばには、タヌキがお蕎麦を
買いにくる「狸蕎麦」というお店があり
ましたが、こちらはキツネです!)

 

「狐しるこ」はとても繁盛し
その後に京橋三十間堀に移転。
「狐」の名を引き継いで、同じ場所に
お店を出したのが「狐鰻」でした。

 

 

kitunesiruko「狐鰻」の前にあったお店「狐しるこ」

 

 

 

江戸前といえばうなぎのこと

「狐鰻」の名前は、「狐しるこ」の狐を
引き継いだというだけではなく、うなぎが
江戸前の「キツネのような細い口で尖った
形をしていたから」ともいわれています。

 

江戸時代は、浅草川、深川あたりの産の
うなぎを江戸前といい、他からのものを
「旅うなぎ」と呼んで区別していたそうです。

 

今の私たちは江戸前といえば、すぐお寿司を
連想しますが、江戸時代は江戸前、江戸名物
というのは全てうなぎ屋だったとか。

 

1818〜1830年の文政年間頃になると、
江戸の両国で与兵衛ずしが人気となり
江戸前という言葉は、うなぎから
お寿司に移っていったようです。

 

 

kituneunagi『江戸買物独案内』1824(文政7)
麻布 さがみどの橋 蒲焼 尾張屋藤兵衛

 

 

 

「狐鰻」は江戸の人気うなぎ屋さん

1824(文政7)年刊行の『江戸買物独案内』
には「麻布 さがみどの橋 蒲焼
尾張屋藤兵衛」と記載されています。

 

また『江戸前大蒲焼番付』(1852・嘉永5年
発行)では、105軒のうなぎ屋の中で、世話役
のところに「麻布 狐鰻」の名がありますし、

 

『江戸自慢』番付の料理屋の項には
『永坂更科そば』『両国与兵衛ずし』
『麹町おてつぼた餅』(←これはわかりません!)
とともに、『古川狐うなぎ』が載っているそう
ですので、有名なうなぎ屋さんだったようです。

 

 

東麻布「野田岩」

 

 

「狐しるこ」は、いわゆるニックネームで
「尾張屋藤兵衛」がお店の名前だということ
ですが、先ほどの『江戸買物独案内』の
「さがみどの橋  蒲焼尾張屋藤兵衛」
も同じ名ですので、

 

「狐」のみならず「尾張屋藤兵衛」という
名前までも継承したということなのですね。

 

その「狐鰻」は、木戸孝允の日記にもでてきます。
1975(明治6)年2月26日に「狐鰻」で井上馨と
伊藤博文に会ったという記述(「Blog-Deep
Azabu」)があるようですので、明治になって
もまだ「狐鰻」はあったということ。

 

 


東麻布「野田岩」

 

 

現在は「狐鰻」のお店はありませんが、東麻布
にある鰻の名店「野田岩」の初代店主・岩次郎
は「狐鰻」で修行したということです。

 

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ヒュースケンの眠る場所「五の橋」 古川の橋4

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古川の上は首都高速道路

前回は、渋谷川(渋谷区)と古川(港区)の境に
ある「天現寺橋(A)」と「狸橋(B)」を
御覧いただきましたので、今日はそのお隣に
ある橋を御紹介しましょう。

 

 

hurukawanohasi古川に架かっている橋
「亀屋橋(c)」「養老橋(d)」「青山橋(e)」「五の橋(F)」

 

 

前回の「天現寺橋」と「狸橋」までは、地図でも
おわかりの通り、水色の線で描かれていますので
川だということがわかりますよね。

 

ところが今日の「c」あたりからオレンジ色の線が
川にかぶってきて、ちょっと見づらくなっていますが
このオレンジの線は首都高速道路。

 

次の地図は上のものより広い範囲を表した地図ですが
左下の方から中央まできて、ほぼ直角に上に行き、
中間で右に行って真ん中あたりで切れている
首都高速道路の下が、古川が流れているラインです。

 

 

taisikanmap現代の麻布の地図(googlemapに加筆)

 

 

途中、少々ずれる所もあるものの
東京湾へ注ぐまでこの状態。
川の上に蓋をされているような感じです。

 

 

 

首都高速が出来る以前の地図

現在の地図ですと、知っている人でなければ
首都高速道路の下に川が流れていることは
地図を見ただけではわかりませんが、江戸時代の
地図ですと、きちんと川のあることがわかります。

 

 

azabukotizu江戸時代の麻布の地図

 

 

こちらの方は、上にあげた現代のものより小さい面積の
地図ですが、古川が大体同じような場所にあることが
何となくおわかり頂けると思います。

 

この地図の下の方だけをアップしたものがこちらです。

 

 

hurukawa

 

 

左の上は、現在有栖川公園がある所で
「南部美濃守」となっています。
現在の有栖川公園の敷地と同じような形
ですのですぐわかります。

 

南部坂を挟んで有栖川公園と反対側のドイツ大使館
がある所は「松平主水」となっていますね。

 

また、ニュー山王ホテルの場所は「成瀬安次郎」、
「荒木十左衛門」と書かれているようです。

 

 

160729gonohasi「五の橋」

 

 

 

「五の橋」

「A」は「天現寺橋」、「B」は「狸橋」でした。
今日御紹介の「c」は「亀屋橋」、「d」は「養老橋」、

 

「e」は「青山橋」、そして「F」が
今日の冒頭の写真「五の橋」。

 

古川橋の中でもちょっと変わっていて
面白い形をしていますね。

 

 

hurukawanohasi

 

 

一や二がなくてここで突然「五」がでてきましたが
古川の流れとは逆に下流の麻布十番の船着き場が
「一の橋」で、だんだん上流に向かうにつれ
数字が増えて、ここが「五の橋」。

 

「五の橋」は1934(昭和10)年にできたそうです。
南麻布3丁目22(地図でいうと上の方)から
白金5丁目3に架かる橋。
長さは17メートルで、幅は6.6メートル。

 

 

heuskenヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン
 Henry Conrad Joannes Heusken(英名)
ヘンドリック・コンラット・ヨアンネス・フースケン
 Hendrick Conrad Joannes Heusken(オランダ名)

 

 

 

麻布に眠るヒュースケン

地図で見ますと「五の橋」の上の方には
光林寺というお寺があります。

 

このお寺には以前もお話しした
幕末期に活躍したアメリカ公使館通訳、
ヒュースケンが埋葬されている場所です。

 

ヒュースケンは、アメリカ公使館でハリスの
通訳兼秘書として日米の条約締結に活躍しましたが
そればかりでなく他の国の条約締結に際しても
協力を惜しむことはありませんでした。

 

 

当時「赤羽接遇所」(B)だった「飯倉公園」

 

 

1861年1月15日の夜、プロイセン公使団宿泊施設
だった赤羽接遇所(B)を出てアメリカ公使館(A
に向かったヒュースケンは、「中の橋(C)」付近
で彼は7人の攘夷派の薩摩藩士に狙撃されます。

 

 

ヒュースケンが襲われた「中の橋」

 

 

 

しばらく走って力尽きた彼が落馬
したあたりは一面の血の海(D)。

 

ただちに彼は、アメリカ公使館(A)・善福寺に
運び込まれましたが、医師の努力も空しく
数時間後に息を引き取ります。

 

 

huskenA アメリカ公使館 善福寺(元麻布1-6-21)
住居 善福寺門前の善光寺(元麻布1丁目7-3)
B 赤羽接遇所 プロイセン公使団宿泊(東麻布1-21-8)
C 中の橋 ヒュースケン襲撃場所(東麻布)
D 落馬したと思われる場所(東麻布)
E 墓 光林寺(南麻布4-11-25)

 

 

最期は彼の子どもを生んだ妻・ツルが
看取ったということです。

 

死の直前にワインを口にした彼は
あと5日で29歳を迎えるという若さでした。

 

アメリカ公使館だった善福寺は土葬をすることが
できないために、彼は麻布の南端にあった
光林寺(
E)に埋葬されることになります。

 

 

turuヒュースケンの妻・ツルと子ども

 

 

 

ヒュースケンと麻布

ヒュースケンの葬儀の日、1861年1月18日
(万延元年12月8日)は小雨まじりの
雪が降る寒い日でした。

 

アメリカ公使館から善福寺まで、喪主のハリスを
はじめとして、日本の外国奉行やプロイセン軍楽隊、
オランダ総領事、イギリス公使、フランス総領事、
兵士、水平など沢山の人が長い列をなしたといいます。

 

下田から江戸に移ってきてから亡くなるまでの間
ヒュースケンはその殆どを麻布の地で過しました。

 

アメリカ公使館の(A)から、今も
その地に眠る(E)まで全て麻布。
ヒュースケンと麻布の縁を感じさせられます。

 

 

hurukawa川沿いほぼ中央にある光林寺がヒュースケンのお墓のある場所  
その左は戸沢上総介下屋敷

 

 

またもう一つ付け加えるならば、ヒュースケンが
「中の橋」付近で襲われた時に、馬でしばらく
行った後に落馬した場所(D)は当時、
戸沢上総介の上屋敷のあったあたりです。

 

そして彼が眠る光林寺(E)の隣りは
現在はフランス大使館となっていますが
当時は戸沢上総介屋敷の下屋敷があった場所。

 

共に戸沢上総介屋敷のお隣ということ
にも、何か因縁を感じますね。

 

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渋谷区では「渋谷川」 天現寺橋から先の港区では「古川」 古川の橋3

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ニュー山王ホテルの前の「狸橋」

前回は、麻布には大使館に限らず各国の施設が
多く存在していることの一つの例として
ニュー山王ホテルを御覧いただきました。

 

といってももちろん外見だけですが。
中には入れませんので。

 

160602thenewsannoニュー山王ホテル

 

 

ニュー山王ホテルは、明治通りに面している
建物ですが、その明治通り沿いには
港区唯一の川である古川が流れています。

 

古川に架かっている橋の一つが
ニュー山王ホテルのすぐ前にあります。
その橋の名前は「狸橋(たぬきばし)」。

 

 

160729tanukibasi ニュー山王ホテルの前に架かっている「狸橋」

 

 

この写真の手前側、ニュー山王ホテルや明治
通りがあるのは、港区南麻布4丁目13番で
「狸橋」を渡った先は港区白金5丁目1番。

 

長さは17,1メートルで、幅は4,7メートルです。
白金の方には、北里大学や北里大学
研究所病院などがあります。

 

 

 

「天現橋」

そのあたりの地図を拡大してみました。
(未だに地図に日本語を書き込むことができないので
アルフェベットでごめんなさい。
全く自己流でGIMPを使っているもので……)

 

 

hurukawanohasiAが「天現寺箸」、Bが「狸橋」(地図/googlemapに加筆)

 

 

中央に「THE NEW SANNO」と書いて
あるのがニュー山王ホテル、
その右の「FRENCH EMBASSY」はフランス大使館。

 

そしてニュー山王ホテルの前に見える(B
が「狸橋」です。

 

 

160602huransutaisikanフランス大使館

 

 

「狸橋」のある場所から、明治通りをもう少し西
(地図では左)に行きますと、上下(北南)に
走っている外苑西通りと交差します。

 

そこで古川に架かっている橋(A)は、「天現橋」
という名前で、交差点は天現寺交差点と呼ばれています。

 

 

 

「天現寺橋」から西(左)は渋谷区広尾

古川に架かっている橋としては以前、ヒュースケンが
暗殺された「中の橋」と、東京タワーのそばにある
「赤羽橋」の御紹介をしたことがありましたね。

 

 

160602nakanohashi東麻布にある「中の橋」

 

 

「中の橋’(r)」や「赤羽橋(s)」が
あるのは、麻布の東端にあたり、住所は東麻布です。

 

古川はそこから港区芝に入り、芝公園や浜離宮
恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)の
側を通り浜松町で東京湾に注いでいます。

 

 

hurukawanikakaruhasi渋谷|〜〜〜〜〜〜 ↑ 南麻布 〜〜〜〜〜↑ 古川から上のみ東麻布

 

 

今日の「天現寺橋」や「狸橋」は、それら
とは反対側の端、南麻布にある橋ですが
天現寺交差点から先(左)は広尾です。

 

「赤羽橋」の隣りの芝は同じ港区でしたが
今日の「天現寺橋」のお隣は、渋谷区広尾
ですので、区の端でもあるのですね。

 

 

160602akabanebasi麻布の東のはじにある「赤羽橋」

 

 

 

「渋谷川(渋谷区)」→「古川(港区)」

「天現寺橋」を越すと住所は港区南麻布4丁目
から、渋谷区広尾5丁目へと移ります。

 

ただし正確にいいますと、「天現寺橋」
を境にという言い方は間違っていて
「天現寺橋」があるのは渋谷区。

 

「天現寺橋」と「狸橋」の間に
渋谷区と港区の境界があるからです。

 

住所が変わるとともに「古川」という川の名前
自体も変わり、「天現寺橋」から上流では
「渋谷川」と呼ばれています。

 

渋谷川は東京都渋谷区の宮益橋から「天現寺橋」までの
2.6キロメートル、古川は「天現寺橋」から浜崎橋先の
河口までの4.4キロメートルを流れる川で、共に二級河川。

 

 

160729tengenjikousaten天現寺交差点 港区側から渋谷区を見たところ

 

 

 

1653年、玉川上水が完成

古くからあったので古川という名前で
呼ばれ、水源は新宿御苑の湧水でしたが
さほど水量の多い川ではなかったといいます。

 

1653年に玉川上水が完成し、現在の新宿御苑を経て
渋谷川へ流れるようになると、水量が増えて
水車を掛けることができるようになりました。

 

その様子を描いたのが葛飾北斎の
富岳三十六景『隠田の水車』。

 

「隠田」とは現在の渋谷区神宮前付近
の古い地名のことだそうです。

 

今から150年ほど前に描かれたということですが
200年足らずで、風景というのは
こんなにも変わってしまうものなのですね。

 

そういえば、これより少し時代は後になりますが
福沢諭吉も「狸橋」の近くに水車をもっていた
そうですよ。

 

 

sibu-hokusai-e_thumb葛飾北斎 富岳三十六景『隠田の水車』
(「写真が語る沿線」)

 

 

 

童謡『森の水車』の舞台

北斎の絵は『隠田の水車』ですが
『森の水車』という童謡があります。

 

♬「コトコトコットン コトコトコットン」
という水車の廻る音が、特徴的に
リズミカルに使われているあの歌です。

 

緑の森の 彼方から
陽気な唄が 聞こえましょう

あれは水車の 廻る音
耳を澄まして お聞きなさい

コトコトコットン コトコトコットン
ファミレドシドレミファ

コトコトコットン コトコトコットン
仕事に励みましょう

コトコトコットン コトコトコットン
いつの日か 楽しい春がやってくる
*  (作詞 清水みのる  作曲 米山正夫)

 

この童謡は、1941(昭和16)年につくられましたが
この童謡の舞台となったのが渋谷川の水車だったそう。

 

 


140420honzan

 

 

 

小学校唱歌『春の小川』も?

それだけではなく、有名な小学校唱歌『春の小川』
の舞台も、渋谷川と宇田川が合流する地点の
代々木だといわれています。

 

一方、作詞をした高野辰之の故郷である長野県説
もあるようですので、「故郷の長野を想いながら
代々木で作った」というのはどうでしょう?

 

こちらは1912年に発表され、作詞は高野辰之、
作曲は岡野貞一ということですが
発表当時は作者の名は伏せられていました。

 

どこが舞台かは別として驚いたのは、私たちの
知っている歌詞が、発表された当時とは
違っていたことです。

 

 

141015ringoshuyou

 

 

 

『春の小川』の歌詞は3パターンあった!

上の段が発表当時の1912年の歌詞で、真ん中は1942年度版、
そして下の段は1947年版ですが、異なる部分をピンク色で表示。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

春の小川はさらさら流る  岸のすみれやれんげの花に
春の小川はさらさら行くよ 岸のすみれやれんげの花に
春の小川はさらさら行くよ 岸のすみれやれんげの花に

 

にほひめでたく色うつくしく
       咲けよ咲けよとささやく如(1912)

すがたやさしく色うつくしく
       咲いてゐるねとささやきながら(1942)

すがたやさしく色うつくしく
*       咲けよ咲けよとささやきながら
(1947)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

最初の歌詞は、当時では普通の言葉だった
のかもしれませんが、現代から見ますと
格調高く感じられて素敵ですね。

 

渋谷川の名前が港区に入ると古川に変わるように
『春の小川』の歌詞も変わっているようです。

 

 

 

麻布七不思議の一つから命名?

渋谷川でちょっと寄り道をしてしまい
ましたので古川に戻りましょう。
「狸橋」(B)は、1978(昭和53)年9月に出来た橋
ということなのですが、かなり新しく感じられます。

 

色も形も古川に架かっている他の橋に比べて
シンプルでモダン、そして一番新しく
出来たような気もするほどですが。

 

 

160729tanukibasi渋谷川(渋谷区)から古川(港区)
になって最初の橋が「狸橋」

 

 

「狸橋」という名前の由来が
橋のたもとの碑に書いてありました。

 

「むかし、橋の東西にそば屋があって
子どもを背負い
手ぬぐいをかぶった
おかみさんにそばを売ると、そのお金が、
翌朝は木の葉になったといいます。

麻布七ふしぎの一つで、狸そばと呼んだのが、
地名から橋の名になりました。

ほかに、江戸城中で討たれた狸の塚が
あったからともいっています。」

 

 

160629nagasakasarasina現在は狸蕎麦はありませんので、イメージね

 

 

 

たぬきも福沢諭吉も大好き「狸蕎麦」

明治になりますと、この狸蕎麦にしばしば顔を見せる
ようになったのが、福沢諭吉で、彼はこの地を
愛で「狸橋」の南側一帯の土地を購入。

 

それが現在の北里研究所や慶応義塾
幼稚舎に繋がっています。

 

ところで先ほどの「狸橋」の名前の由来ですが
「子どもを背負い手ぬぐいをかぶったおかみさん」
というあたりが、私には何ともおもしろく感じられます。

 

もし現代にたぬきが「子どもを背負って
手ぬぐいをかぶったおかみさん」に化けて
きたら。かなり目だってしまうでしょう。

 

その当時はそれが、子どもを育てている
女の人の普通の姿だったということが
何ともやさしく美しく感じられます。

 

今だったらたぬきは、どんな格好で現れるのかな?

 

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