「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」「抱屋敷」「蔵屋敷」

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kinokunizaka

 

 

大名の江戸藩邸

今日は江戸切絵図に、マークのように
記された「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」
についてのお話を少々。

 

各大名がこのようなお屋敷を江戸に置くよう
になったのは、徳川3代将軍・家光によって
参勤交代が制度化されてからのことです。

 

それらのお屋敷は幕府から命を受ける、いわば
事務所のような役目ももち、また人質として
大名の妻子を住まわせるための家でもありました。

 

大きい藩になりますと、上屋敷、中屋敷、下屋敷
以外にも別邸をもっていたり、抱屋敷(かかえ
やしき)、蔵屋敷(くらやしき)などが、それぞれ
の必要に応じて用意されたようです。

 

 

140609akasakasacas赤坂サカス「広島藩浅野家中屋敷」

 

 

 

上屋敷(かみやしき)

江戸切絵図では「家紋」+「大名の名」で表示

江戸切絵図で「家紋  + 大名の名」が書いてある
ものは、その大名家の「上屋敷」ということで
家紋の上がその屋敷の表門の位置になります。

 

本宅にあたる一番重要なお屋敷で、藩主が
江戸滞在中に正妻などと暮らす場所であり
公式な行事をする場所でもありました。

 

敷地は各大名の地位、譜代、外様の別、石高
などを考慮して、場所や大きさが決められた
ものを各大名が幕府から拝領しました。

 

江戸城に登城する際に便利なように、上屋敷は
比較的江戸城に近い場所にあることが特徴です。

 

御三家をはじめ大きな藩ですと、一つの
お屋敷だけでは事足りず中屋敷、下屋敷等
が作られるようになっていきます。

 

 

六本木ヒルズ「長府藩毛利家上屋敷」

 

 

 

「長府藩毛利家上屋敷」—— 六本木ヒルズ

上の写真は六本木ヒルズ( 港区六本木
6丁目11-1)の毛利庭園ですが、こちら
は長府藩毛利家の上屋敷でした。

 

TV朝日の報道ステーションの
天気予報でもお馴染みですね。

 

近くの東京ミッドタウンも毛利家の
お屋敷でしたが、あちらは長州藩の
毛利家で、こちらはその支藩になります。

 

長州藩毛利家上屋敷の侍屋敷では、明治時代の
陸軍大将となった乃木希典が、乃木稀次の三男
として1849(嘉永12)年に生まれています。

 

 

121022hue

 

 

またこれは仙台藩の『江戸御屋敷定』に
記されていることですので、他の藩も同じか
はわかりませんが、上屋敷の大手門近くの
長屋に住む藩士は、小唄、三味線、謡、鼓、
太鼓、笛などの演奏を禁じられていたそうです。
         (「江戸に仙台を見る」)

 

一方、他の長屋では謡、鼓、太鼓、笛は許され
ていたということですので、やはり上屋敷は
公的な要素が大きいための制約なのでしょうか。

 

それにしても「小唄、三味線」は禁じられて、
「謡、鼓、太鼓、笛」は可ということは
歌舞伎はだめで、能楽はOKということですか?

 

そういえば昔、お能の先生に
「江戸時代は謡を習うことは、共通語を
知ることでもあった」という冗談が本当か
わからないことを聞いたこともありましたが。

 

 

121220ki六本木ヒルズ「長府藩毛利家上屋敷」

 

 

中屋敷(なかやしき)

江戸切絵図では「  ■   」+「大名の名  」で表示

中屋敷は嫡子や隠居、側室などが住む家です。
大藩の大名は中屋敷をもっていましたが
中屋敷をもたずに上屋敷と下屋敷のみを
江戸藩邸としていた大名も数多くいます。

 

ここで「江戸藩邸」と書きましたが
藩邸という言葉は当時使わなかったようです。

 

それぞれの屋敷は、◯◯藩として幕府から
拝領するのではなく「あくまでもその時点で
◯◯藩主である△△家に対して与えられる」
ものだからです。

 

ですから△△家が、◯◯藩から××藩へと
転封(領地替え)をした場合でも、江戸屋敷
がかわることはありませんでした。

 

 

140401miharutakisakura赤坂サカス「広島藩浅野家中屋敷」

 

 

 

「広島藩浅野家中屋敷」—— 赤坂サカス

広島藩浅野家(松平安芸守)の上屋敷は
霞ヶ関の国土交通省庁舎のあるあたりに
ありましたが、中屋敷は2つありました。

 

国会議事堂がある場所と、赤坂サカス
( 港区赤坂5丁目3-6)の2つです。
下屋敷は表参道ヒルズのあたり。

 

前回、松平姓を賜った外様大名の中に
広島藩浅野家の名前がありましたが、中屋敷
を2つもつ大藩であったことがわかります。

 

 

141126akasakasacaskouyou赤坂サカス「広島藩浅野家の中屋敷」

 

 

 

下屋敷(しもやしき)

江戸切絵図では「  ●  」+「 大名の名」で表示

下屋敷は、別荘や別邸ともいうべき
お屋敷で、立派な庭園が造られたり
側室の住まいにもなったようです。

 

江戸は火事が多かったので、その際の
避難所としても使われました。

 

また不運にも上屋敷が焼失したような場合
は、一時的に中屋敷、あるいは下屋敷が
上屋敷の代わりの役目も果たしました。

 

前にお話ししたように明暦の大火(振袖火事)
では、多くの屋敷が焼失しましたが、それを
機に他の場所に移った大名家もあります。

 

浅野内匠頭の赤穂浅野家は、最初は外桜田門
に上屋敷がありましたが、明暦の大火後は
鉄砲洲に土地を賜っています。

 

 

130426hujisiro東京ミッドタウン「長州藩毛利家下屋敷」

 

 

 

「長州藩毛利家下屋敷」——東京ミッドタウン

先ほどの六本木ヒルズの長府藩毛利家の
本家にあたるのが、東京ミッドタウン
(港区赤坂9丁目7−1)に下屋敷を構え
ていた長州藩毛利家です。

 

長州藩毛利家の上屋敷は、日比谷御門外
にあり、青山にあった中屋敷は後に
外桜田へと移りました。

 

下屋敷はこの東京ミッドタウン以外に
渋谷にもありましたので、下屋敷は
2つあったことになります。

 

 

130317mouri東京ミッドタウン「長州藩毛利家下屋敷」

 

 

東京ミッドタウンの下屋敷は「麻布屋敷」
とも、檜の木が多かったことから「檜屋敷」
ともいわれ、2000人もの人が暮らしていた
といいます

 

江戸の屋敷は参勤交代があるため出入りも
多く、正確な人数はわからなかったようですが
それだけではなく江戸藩邸内というのは、幕府
の統治外であったため、正確な数が出なかった
ともいわれます。

 

万一、藩邸内に犯罪者が逃げ込んだとしても
幕府は捜査をすることはできなかったそうです。

 

 

151212nanbuzakaue赤坂6丁目にある「南部坂」

 

 

 

土地の交換「相対替え」

これらの屋敷は、幕府の命令によって変え
られることもあり、また幕府の許可を得た
上であれば、大名同士で屋敷を交換する
(相対替え)ことも可能でした。

 

有栖川公園の時に書きましたが、赤坂6丁目
にあった赤穂藩・浅野家下屋敷と、有栖川公園
にあった盛岡藩・南部家下屋敷は、相対替え
をしています。

 

その両方の場所付近には「南部坂」という
名前の坂があり現在でも残っています。
これはフィクションではありますが
忠臣蔵の南部坂雪の別れとしても有名。

 

 

160602arisugawakoenhanashobu赤穂浅野家→盛岡藩南部家の屋敷になった「有栖川公園」

 

 

 

「抱屋敷(かかえやしき)」

今まで見てきた土地は、すべて幕府から拝領した
「拝領屋敷」でしたが、それとは別に大名が必要
に応じて土地を購入し、屋敷をつくったものを
「抱屋敷(かかえやしき)」といいました。

 

購入資金はもちろんのことですが、土地に
かかる年貢なども大名の負担となり、下屋敷
やその他の用途に使われたということです。

 

抱屋敷を下屋敷と呼んでいる家もあるようです
ので、一口に下屋敷といっても、拝領屋敷と
抱屋敷の両方があるということになりますね。

 

 

麻布にある「南部坂」 左は有栖川公園

 

 

 

「蔵屋敷(くらやしき)」

その他には、江戸よりも大坂に多かった
というのが、年貢米や領内の特産物を
しまっておく倉庫のような役目をした蔵屋敷。

 

荷を船で運搬するために、江戸湾や
隅田川沿岸部に建てられました。

 

豊臣秀吉の時代からあったという蔵屋敷は
有力な商人たちがいた大坂・堺にありましたが
江戸幕府の成立により、政治は江戸に移っても
商業は依然として大坂が中心であり
蔵屋敷は増える一方だったとか。

 

儒教思想の影響からか商売を厭う大名は
自分の蔵屋敷を表向き「有力商人のものを
借り受けている」と装っていたといいます。

 

 

hyugazakasendaizaka・・・)で囲ったところが「仙台藩伊達家下屋敷」

 

 

大坂では多い時には600を数えたという蔵屋敷です
が、それを所有していると公言したのは、安濃津藩
(あのつはん、三重県津市)と、前回登場した
伊代松山藩(桜井松平家)の2つだけだったそうです。

 

南麻布に下屋敷のあった仙台藩伊達家の蔵屋敷は
大坂と深川(江東区清澄1丁目)にありました。

 

仙台から送られてきた米等を貯蔵し
また江戸で暮らす仙台藩士の食用のため
のお米もここで保存されていたそうです。

 

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江戸切絵図に「松平家」が多いのはなぜ?

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higonokami1857

 

 

江戸の町は「松平」だらけ!

江戸切絵図を見ていると屋敷の名前に
「松平」が多いことに驚きます。

 

冒頭の切絵図では「松平肥後守」、「松平主殿頭」、
「松平隠岐守」、「松平時之助」というように。

 

左下の「三の橋」、真ん中の「二の橋」、上の「一の橋」、
そして今度は流れを右に変えて中央が「中の橋」、
右端が「赤羽橋」というように、古川に囲まれた場所
にある8つの屋敷のうち4つが「松平姓」なのです。

 

松平を名乗る屋敷がなぜ多いのか、という
理由については、大きく分けて3つあります。

 

 

tokugawaaoi「徳川葵(三つ葉葵)」

 

 

 

① 徳川を名乗らない家康の子孫は松平

家康の子孫で徳川を名乗らない家が
松平を名乗っています。

 

徳川を名乗ることができるのは、徳川の嫡流の
「尾張」、「紀伊」、「水戸」の御三家だけです。

 

それ以外は、家康の子孫であっても徳川を
名乗ることできず、また御三家でも
その分家となると徳川ではなく松平です。

 

 

「松図襖」狩野尚信 徴古館(佐賀藩鍋島家)

 

 

家康の次男である秀康を始祖とする家も、
松平を名乗っていますが、所領が越前で
あったことから、「越前松平家」といわれます。

 

前々回にお話をした保科正之も、2代将軍・秀忠の子
ですので、松平姓を許され、3代藩主・正容からは
松平を名乗っています。

 

こちらは会津藩主だったことから「会津松平家」

 

 

保科家の「会津葵紋」

 

 

家康の娘・亀姫の夫も「奥平松平家」となり、
家康の異父弟・康元、勝俊、定勝も「久松松平家」
となっています。

 

その中で城主大名として幕末まで
続いたのは、末弟・定勝のみです。

 

下の江戸切絵図で、左下の「松平肥後守」下屋敷の
表門側の道を挟んだ、右上の「  ■   松平隠岐守
(伊予国松山藩)」と、上から下へ書いてある
のがこの「久松松平家」のお屋敷です。

 

 

higonokami1857                     ↑ 「松平隠岐守」

 

 

 

② 家康が将軍になる前からの親類も松平姓

次は、家康が江戸幕府の征夷大将軍となる以前から
松平を名乗っていた、家康の親類たちの子孫も
当然のことながら松平姓です。

 

家康は三河国加茂郡松平郷の松平家の9代目
ということですが、記録に残る限りでは
松平を名乗っていたのは3代・松平信光から。

 

先祖を松平信光までさかのぼると、徳川家康と
共通の祖となる松平家を、「十八松平」といいますが、

 

この十八という数字は、かならずしも正確な数を
表すものではなく、「松」という字を分解した
「十」「八」「公」からきているといいます。

 

 

140420matu

 

 

 

十八松平(十四松平とも)

「竹谷(たけのや)松平家」
「形原(かたのはら)松平家」
「滝脇(たきわき)松平家」
「藤井(ふじい)松平家」

 

「大給(おぎゆう)松平家」
譜代大名4家と旗本を数多く出した家ですが
十八松平家の全てが大名とは限らないようです。

 

「大草(おおくさ)松平家」は、旗本
でしたが、嗣子がいないため断絶。

 

 

 

「五井(ごい)松平家」
幕末まで続いていますが旗本でした。

 

「福釜(ふかま)松平家」も同様に、大名には
取り立てられず旗本どまりで、松平一族の中では
優遇されなかった家だということです。

 

「東条(とうじょう)松平家」は、嗣子がない
ため、1607(慶長12)年に断絶していますが
家康が尾張徳川家を創設したことにより
領地と家臣の大半が尾張藩に引き継がれました。

 

 

150718hitotugimanjushougetu

 

 

 

「長沢(ながさわ)松平家」は跡継ぎがいない
ことから、家康の六男・忠輝が養子に入り
11代となりましたが、異母兄にあたる徳川2代
将軍・秀忠によって改易、家名は断絶。

 

忠輝の血筋は残っていたのですが
幕府はなかなか家と認めません。

 

1719(享保4)年になって、ようやく
長沢松平家と承認し、1834(天保5)年
に十人扶持と禄が下されました。

 

この長沢松平家の18代・忠敏(主税助)
は、幕末期の新撰組の前身である
浪士組の取締役となった人です。

 

 

150717hitotugimanjushougetu

 

 

「能美(のみ)松平家」の14代・松平親貴は
戊辰戦争が勃発すると、旧幕府側から離反して
新政府側に寝返りましたが、このように
見ていきますと、松平家も様々ですね。

 

「桜井(さくらい)松平家」
改易したものの、後に復活。

 

桜井松平家の江戸屋敷は、東京府芝区三田2丁目
(現、港区三田2丁目)にあったということです。

 

次の切絵図では、上の真ん中の「黒田甲斐守」の
屋敷の下あたりになるはずなのですが、そこに記載
されているのはお寺で、お屋敷は見当たりません。

 

 

higonokami1857桜井松平家が行方不明?

 

 

切絵図の作られた後に、桜井松平家の
お屋敷が出来たのでしょうか?

 

切絵図を上下左右に四分割した、左上あたりに
桜井松平家の屋敷があったということです。
(わかり次第、追記でお知らせします)

 

桜井邸は第二次世界大戦の震災を逃れ
戦後に香川県に売却。

 

そしてその場所は現在「東京さぬき倶楽部」となり
敷地内には、当時の土蔵や木造建築が残っています。

 

6年ほど前になりますが、家のリフォームのために
1週間ほど家を空けた時、「東京さぬき倶楽部」に
4、5泊お世話になりました。
リーズナブルで快適だった記憶があります。

 

 

160411toriizaka「鳥居坂」麻布十番から六本木方面にのぼる坂

 

 

「深溝(ふこうず/ふこうぞ)松平家」
4代・家忠は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの
前哨戦といわれる「伏見城の戦い」の際、

 

守将・鳥居元忠の副将格として
伏見城で籠城玉砕しています。

 

このブログで少し前に鳥居坂をとりあげた
「『鳥居坂』鳥居元忠は大石内蔵助の高祖父」
時に登場した、鳥居家の鳥居元忠と運命
を共にした人だったということですね。

 

 

160411toriizakaue鳥居元忠のお屋敷があった「鳥居坂」

 

 

 

③ 報賞、名誉として与えられた松平姓

御褒美、名誉としても、有力
大名に松平姓を与えています。

 

江戸城内での格式は、将軍家一門に
匹敵する大名であるという称号でした。

 

豊臣秀吉も同様だったようで、徳川2代将軍・秀忠
は、秀吉存命中に「豊臣秀忠」の名で
官位の辞令がおりているということです。

 

松平姓を許されたとはいえ名乗ることができるのは
当主と、将軍家への披露、叙位任官の済んだ
嫡男のみが公的な場で名乗るのみです。

 

他の場面や、当主と嫡男以外の
一族は、本姓を名乗ります。

 

 

hyugazakasendaizaka・・・)で囲った「松平陸奥守」は仙台藩伊達家

 

 

 

松平姓を許された譜代大名

「戸田松平家」「松井松平家」
「大河内松平家」
「本状松平家(後に廃絶)」
「柳沢松平家」「菅沼松平家」

 

松平姓を与えられた外様大名

「前田氏」「伊達氏」「島津氏」「毛利氏」
「黒田氏」
「浅野氏」「鍋島氏」「池田氏」
「蜂須賀氏」「山内氏」

 

 

 

 

そこで最後に、松平姓を与えられた側は
どのように思っていたのかということですが
実はちょっと微妙なところもあったそうですよ。

 

「松平より、うちの方が格が上だものね」と
思った家もあったとか、なかったとか……。

 

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江戸時代の地図「江戸切絵図」 

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141005hinokityokoen

 

 

「切絵図」

このところ古川に架かる橋のお話をする時に
「江戸切絵図」を用いていますが、切絵図は
現在の地図とは少々趣が異なっています。

 

「切絵図」とは、地域毎に区切られている絵図の
ことであり、その多くは江戸のものを指しています。
下書きされた地図を、絵師が仕上げた
ために絵図と呼ばれます。

 

江戸を大きな1枚の地図で表したものは
持ち歩くの不便ですが、地域毎の切絵図は
携帯に便利なため、好評だったということです。

 

 

12.6.2.mouri

 

 

 

武士たちの必需品?

江戸は人口100万人という世界最大の都市でもあり
その半数は武士ともいわれていますが、江戸詰の
武士たちはそれぞれの藩の地元からやってきている
わけで、江戸の地理には詳しくありません。

 

そのような武士が、他家へ行く時に
とても重宝したのが切絵図でした。

 

一方、便利な携帯品として使われただけではなく
江戸のお土産としても江戸切絵図は人気があった
というのも、おもしろいところ。

 

江戸切絵図を制作していたのは
「吉文字屋(きちもんじや)板」、「近吾堂板」、
「尾張屋板」、「平野屋板」の四つ。

 

 

140416hinokityoukouen

 

 

 

最初の「吉文字屋板」はなぜか不評

まず最初に切絵図を刊行した「吉文字屋板
(美濃屋板)」は、1755(宝暦5)年から
1775(安永4)年の間に、本屋の吉文字屋と美濃屋
の合同で、8枚の切絵図を出版しています。

 

目のつけどころはかなりのものだったと
思うのですすが、売れ行きは芳しくなく
江戸全体までを網羅する前に制作中止。

 

なお切絵図1枚がどれほどの値だったかについては
2000円位ではなかったか(「噺の話」)としています。

 

安いとはいえないまでも、旗本屋敷等
では、仕事上で欠くことができないもの
なので高過ぎる値段ではなかったようです。
この値段は、寄席の木戸銭とほぼ同じ額だったとか。

 

 

hirohurukawa-1

 

 

 

道を訪ねられ続けて「近吾堂板」

「近吾堂板」は「近江屋板」とも呼ばれ
1846(弘化3)年から、1856(安政3)年に
かけて江戸切絵図を刊行しています。

 

近江屋は、江戸麹町10丁目(現在4丁目)にお店
を構える荒物屋でしたが場所柄、荒物屋五平の
お店には、様々な武家屋敷への道を訪ねてくる人
が後を絶たず、その数は仕事に支障を来すほど。

 

五平は番町の地図を作ろうと思い立ち、調べて
みると、90年ほど前に吉文字屋という本屋から
番町地図が出版されていることがわかりました。

 

調べを重ねて番町の切絵図の出版に
漕ぎ着けましたが、これが好評。

 

番町以外の「永田町絵図」「駿河台小川町図」
「日本橋並神田辺之図」等々の切絵図も
手がけるようになり、最終的には江戸全体を
網羅する38枚の切絵図が刊行されました。

 

 

140416tokyomidtown

 

 

 

近吾堂板切絵図は池波正太郎のお墨付き

1955(昭和30)年の秋、まだ小説家になる
前の池波正太郎は、1849(嘉永2)年制の
近吾堂板の30余枚の切絵図を購入します。

 

池波正太郎はその後も、数種の古地図
や切絵図を入手するものの、最初に
手に入れた切絵図には及ぶべくもなく、

 

「木版の刷りも、堅牢な紙も、びくともしていない。
手元において、一日に何度となく手に取る、
この切絵図を見るとき、
私は、
江戸の文化を想わずにはいられない。」

 

と記しています。
(池波正太郎『江戸切絵図散歩』新潮文庫)

 

 

 

 

 

多色使いが錦絵のような「尾張屋板」

麹町10丁目(現在6丁目)にあった
「近吾堂板」の大成功を目の当たりにしたのが
麹町6丁目(現在4丁目)の絵草紙屋青七。

 

素人の荒物屋にしてあの成功、本業の自分が
やらないわけにはいかないと、1849(嘉永2)年
に参入して1863(文久3)年まで続けます。

 

屋号は「尾張屋」、堂号は「金鱗堂」だったため
「尾張屋板」は「金鱗堂板」ともいわれますが
江戸切絵図では最も有名なものです。

 

この「尾張屋板(金鱗堂)」と、先に出来た
「近吾堂板(近江屋)」とが二大版元といわれています。

 

絵草紙商の尾張屋が手がけた切絵図は
とてもカラフルで、土手や畑の緑、武家屋敷は白、
町家が灰色、神社仏閣が赤で海や川は青く、
道路は黄土色と錦絵のようと人気を博しました。

 

 

kituneunagi「尾張屋板(金鱗堂)」の江戸切絵図
古川に架かる「四の橋」付近

 

 

 

現代的だったが何故か不評の「平野屋板」

「平野屋板」は1852(嘉永5)年、ペリーの黒船が浦賀
に来る前年に出版された現代の地図に近い切絵図です。

 

今までのものとは違い、方位や縮尺を全て
一定にし、また、それぞれの切絵図が連続
するように作られている切絵図でした。

 

ですが人々の支持を得られなかったようで
本来は40枚で江戸全体を網羅する予定だった
ものが、結局は3図だけの刊行に終わっています。

 

 

azabukotizu右の真ん中あたりにオレンジ色の丸がありますが
この地図での東西南北が示されています。

 

 

 

江戸切絵図のルール ①

「北が上ではない」

これらの刊行された切絵図の、全てに共通する
ことではありませんが、切絵図には現代の地図
とは異なったお約束、決まりがあります。

 

まず、現在の地図のように北が上ではないこと。
北が上ではありませんので、東西南北はこのように
なっていますという意味で、上の切絵図のように
)の中に、方位が示されています。

 

私はブログで使う時は出来るだけ
上が北に近くなるようにしています。

 

例えば下の切絵図は、右下の文字でおわかりの通り
90度回転をして北が上になるようにしたもの。

 

 

hurukawa古川の「四の橋」、南部美濃守
(現在の有栖川公園)付近の切絵図

 

 

 

江戸切絵図のルール ②

「表門側を上として名前を書き始める」

次の切絵図は前回、御紹介した保科正之の
お屋敷が載っているものですが、各大名家の
名前の書き方の向きがバラバラですね。

 

これは表門がある方を上として
名前を書いているからです。

 

右下四分の一以上を占めている、会津藩保科家の
屋敷は、名前が横向きに書かれていて、かつ右を
頭として書き始めていますので、右の「綱坂」の
ある道路が、表門だったということがわかります。

 

 

aiduhoshina古川に架かる「三の橋」、「二の橋」付近の切絵図

 

 

町名や坂、川の名前も同様で
どちらを上(最初の文字)にするかに
よって、それぞれ意味をもたせています。

 

町名では、江戸城がある方を上(最初の文字)と
して書き、坂名は、坂の高い方から低い方に向けて、
川の名は、上流から下流に向けて書かれています。

 

 

 

 

 

江戸切絵図のルール ③

家紋、■、●  の表すもの」

また、会津藩保科家(松平肥後守)の名前の上には
「黒い丸(●)」があり、他の屋敷に多く見られる
ような家紋は見当たりませんが、これは

 

「家紋」がついている場合は「大名家の上屋敷」を、
「黒い四角(■)」は、「大名家の中屋敷」を、
「黒い丸(●)」は、「大名家の下屋敷」を
それぞれ表しています。

 

そこで会津藩保科家の三田藩邸は「下屋敷」という
ことになりますが、この地図はそれ以外にかなり
詳しい情報を書き込んでいる地図のようです。

 

 

 

 

 

他の情報を加えたものも

例えば、次の地図は同じような場所を
表した、1857(安政4)年のものですが
「● 松平肥後守」とだけ書かれています。

 

 

higonokami1857古川に架かる「一の橋」「二の橋」「三の橋」付近の切絵図

 

 

先ほどの地図には、領地名、藩主の名、
石高が記載されています。
「陸奥会津藩(福島) ●  松平肥後守容保 二十三万石」

 

松平容保(かたもり 1852年〜1868年)は、会津藩
第9代目の藩主であり実質的には最後の藩主でしたので、
この切絵図はそれ以降に作られたものですね。

 

 

 

 

 

江戸切絵図のルール ④

縮尺の不正確さ(実測より「心測」?)

最後に刊行された「平野屋板」の切絵図は
縮尺が正確でしたが、それ以前のものが正確
でない理由は、測量技術の未熟からというよりは
あえてそのようにしていたということです。

 

つまり、有名な建物、木といったものをあえて
大きく描くことは、切絵図を見る人の心の中でも
それらが大きくクローズアップされていた故、
逆にバランスがとれていたというわけです。

 

存在感が大きいものを実際以上に大きく表すことは
事実とは異なりますが、それはいわば実測ではなく
心測(という言葉はありませんが)思いを測った
心の反映であって、何か頷けるような気もしますね。

 

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