「麻布」の名前の由来 「一の橋」 古川の橋13 

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

160906itinohasi

 

 

古川の橋

今年の最初の投稿は「一の橋」。
「二の橋」をご紹介してから随分、時間が
たってしまいましたが、今日の「一の橋」で
古川に架かる橋シリーズ(?)はおしまいです。

 

港区を流れる唯一の川である古川は
渋谷区では渋谷川と呼ばれていますが
港区に入ってからは古川と名前を変えます。

 

 

「天現寺橋」付近 下の地図では「 o  」の付近

 

 

港区に入って最初の橋である「天現寺橋(a)」
から古川は、ほぼ直線で右(東)に進み、

 

「古河橋(J)」で直角に曲がって
方向を上(北)に変えて流れます。

 

そして、また直角に右(東)に進み
始める起点が、「一の橋(o)」です。

 

 

古川の橋天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

「一の橋」以降は、「中の橋’(r)」や「赤羽橋(s)」
を過ぎてからは港区芝に入り、芝公園や浜離宮恩賜
庭園(はまりきゅうおんしていえん)の側を通った後、
浜松町で東京湾に注いでいます。

 

 

「天現寺橋」付近  安藤広重『広尾ふる川』

 

 

 

古川の源流の一つは玉川上水

1653(承応2)年に完成した玉川上水の
余水は、現在の新宿御苑内で池を作り
そこからの流れが古川の源流となりました。

 

1657年の「明暦の大火」後の都市改造に伴ない
古川の拡張工事が計画されることとなります。

 

1675(延宝3)年には、麻布山付近に大名屋敷や
寺社仏閣を造営にあたり、江戸湊までの最後の1キロ
ほどが運河として再整備されることになりました。

 

新しく作られた運河は「新堀川」と名付けられ、一方、
運河の終点である麻布十番から、上流の川は「古く
からある川=古川」と呼ぶようになったといいます。

 

古川の下流は現在流れている場所よりも
もう少し、南に寄っていたという説もあるようで
それによりますと、この工事の際に本流が
現在の場所に付け替えられたとのことです。

 

 

「四の橋」の向かい側  麻布御殿(白金御殿)があった付近

 

 

 

綱吉の別邸づくりのために古川を拡張

1697(元禄10)年、現在の南麻布に将軍・綱吉
の別邸「麻布御殿(白金御殿)」が造られる
こととなり、その建設資材を運ぶための
改修工事が行われることになりました。

 

また将軍が直接、船で古川をさかのぼって麻布御殿に
入ることができるよう、川幅を広げる工事や、
掘り下げも行なっています。

 

普請のための土運びや資材を運ぶ人足場を、
古川の河口から「一番」、「二番」と順に設けていき、
その十番目にあたる「十番組」が、現在の麻布十番と
呼ばれる近くであったことが、「麻布十番」の地名の
由来といわれています。(「渡辺淳『東京風情』」)

 

 

川幅が広くなっている「二の橋」

 

 

1699(元禄12)年には、川幅の拡張をする際、
麻布十番付近にあった岡田将監(しょうげん)の
屋敷の西側が召し上げられ、新堀堀割となって
「一之橋」と「二之橋」が架けられました。

 

「麻布御殿(白金御殿)」は、綱吉が2度訪れただけで
わずか数年後には火事で焼失してしまいましたが、工事
で拡張された新堀川の川沿いは賑わいを増したようです。

 

「一之橋」のたもとには1716〜1736年(享保年間)の頃
から、新河岸と呼ばれる荷揚げ場ができるようになり近隣
の住宅へ、薪や炭を運ぶ役目も果たすことになりました。

 

 

160906itinohashi「一の橋」

 

 

しかし、かつては大名屋敷を中心とした市街地が
形成されて活気を見せていた街も、明治40年代に
入り、トロリー電車が通るようになると、水上交通
の役割は急激に少なくなっていったようです。

 

 

 

「一の橋」

赤羽川の合流口でもある「一の橋」は、三田1丁目
から麻布4丁目にかかる銅橋で、現在の橋は
1983(昭和58)年に改修されたものです。

 

次の写真は、首都高一ノ橋ジャンクションの下から
撮ったもので、写真の下につけた地図でいいますと
「一の橋(o)」、「一の橋公園橋(p)」のあたりになります。

 

 


 

 

 

「中の橋」でヒュースケン暗殺

なお、この地図をご覧になってもお分かりの通り、
「一の橋(o)」の右側には、まだいくつかの橋が
残っていますが、「中の橋(r)」と「赤羽橋(s)」
は昨年ご紹介しています。

 

最初は、中の橋(r)」(「『中の橋』で暗殺された
アメリカ公使館の通訳、ヒュースケン」
)だけをご覧
いただくつもりだったものが、お隣の「赤羽橋(s)」
や古川を遡って「天現寺橋」というように、

 

古川に架かるいくつもの橋から
昔の話を教えてもらうように進んでいくうちに、
今回の「一の橋」までたどり着きました。

 

 

「中の橋」

 

 

 

ヒュースケンの暗殺を計画したとされる
清河八郎も「一の橋」で暗殺

なお「中の橋」で、アメリカ公使館の通訳だった
ヒュースケンを襲った、伊牟田尚平、樋渡八兵衛ら
の計画を、裏で画策したともいわれる清河八郎自身
も、後にこの「一の橋」で暗殺されています。

 

横浜の外国人居留地焼き討ちなども計画していた
清河八郎が、佐々木只三郎、窪田泉太郎など8名の
幕府の刺客によって暗殺されたのは
1863年4月13日の夕暮れ時でした。

 

28歳で命を落としたヒュースケンと
34歳で暗殺された清河八郎。
「一の橋」付近は激動の幕末期の舞台と
なった場所でもあったようです。

 

 

「うぐいす」と「梅」 赤坂「青野」

 

 

 

「麻布」の名前の由来は?

「麻布十番」の名の由来は、上に記したものですが
「麻布(あざぶ)」の由来は諸説あり
はっきりしたことはわからないのだとか。

 

「麻布」という表記は、1713(正徳3)年頃から
この辺り一帯が、「町方」に指定されて町奉行の
管理下に置かれた以降である旨の記述が「文政町方書上」
にみられるということです。(南麻布富士見町会)

 

麻布善福寺にある「北条氏朱印状」(1566・永禄9年)
や、「豊臣秀吉朱印状」(1590・天正8年)では
「麻布」を「阿佐布(阿左布)」「浅生」「浅府」
「麻生」「麻田(あさふ)」と記載しています。

 

 

 

 

 

色々な説

多くの麻を植えて布を織っていたことが地名となった
という説が一般的なものですが、それ以外には
草が浅々と(あっさりと)生えていたという説、

 

善福寺に麻が降り、そこから麻布留山(あさふるやま)
というようになって、それを省略したという説、

 

あるいはアイヌ語の「アサップル(船で渡るの意)」
とするもの、「アサム(底、奥)」から転じた、
などともいわれますが、結局のところ
はっきりとはわからないそうです。

 

なお、現在の「麻布」という地名は、江戸南西部の
かなり広い部分を指していますが、本来は、麻布木村
から善福寺周辺、現在の南麻布1丁目〜3丁目、
元麻布1丁目、2丁目あたりを「麻布」と呼んでいました。

 

 

 

 

 

芭蕉の句ではなかった「鶯を……」

ところで麻布といえば、芭蕉の
「鶯を たずねたずねて 阿佐婦まで」
が有名ですが、実はこの句は芭蕉の作
ではないということです。

 

しかも
「鶯を たずねたずねて 阿佐婦まで」ではなく
「鶯を たずねたずねて 阿佐婦かな
が正しいのだそう。

 

芭蕉がうぐいすを詠んだ句には
「鶯や 柳の後ろ 藪の前」
などがあるばかりで、あざぶの句はありません。

 

ちなみのこの句は、薄暗いところを好んで低空飛行
する落ち着きのない鶯が、柳の前にいたかと思うと、
今度は藪の前にいる、という様を詠んだもので
『蕉翁句集』では1692(元禄5)年とするものの、
1694(元禄7)年、芭蕉51歳の時の作だそうです。
           (「伊藤洋のページ」)

 

「鶯を たずねたずねて 阿佐婦かな」が
どなたの作かは今のところわかりませんが
うぐいすの鳴く春はもうすぐですね。

 

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お城で渡されたカード うさぎからのメッセージ8 

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お城に間借り

何年前のことだったかは、はっきり覚えていない
のですが、ちょうど今頃の季節に、お友達のS子ちゃん
のいるロンドンに行ったことがありました。

 

幼い時にロンドンに引っ越したS子ちゃんは
大学入学前に日本に帰ってきたものの、その後
再びイギリスの大学に留学し、卒業後もそのまま
留まって仕事をしていたのです。

 

現在、彼女はロンドンで暮らしていますが
通っていた大学はロンドンから車で数時間
ほどの都市にあったので、彼女はそこで
1軒のおうちに間借りをしていました。

 

 

毛利庭園 六本木ヒルズ

 

 

 

マンションに改造したお城

彼女が間借りをしていたおうちは
元はお城だったマンションでした。

 

お城といっても、ディズニーランドにある
シンデレラ城のようなお城ではなく
四角い箱のような形のお城です。

 

そのお城には伯爵が住んでいたそうですが、最後の
伯爵が結婚をせず、子どもも持たなかっために
お城をマンションに作り替えたということでした。

 

1つのお城は20数軒分の家に分割されて
S子ちゃんは、その中の1軒のネコを
飼っているおうちで暮らしていました。

 

私はその元お城のマンション宛に、彼女に
何度か手紙を書いた記憶があります。

 

 

ミラーボーラーのツリー アークヒルズ

 

 

 

お城でクリスマス

マンションの住人で、S子ちゃん以外の日本人は
K美さんという女性がいたそうで、彼女は20数軒の
中でも、一番メインとなる大きなお家の奥さん。

 

日本人同士ということで、S子ちゃんはK美さんと親しく
なり、二人の交際はS子ちゃんが仕事の関係でロンドン
で暮らすようになってからも続いていたようです。

 

そのK美さんの暮らすお城で、クリスマスを一緒に
過ごさない?、とS子ちゃんに誘ってくれました。

 

 

東京ミッドタウン

 

 

 

家が1軒も見えない……

私はそれまで一度も行ったことはなかったのですが
小説で有名なその都市は、落ち着いた静かな町でした。

 

ロンドンから車で着いた時は、辺りはすでに暗くなって
いたのでわからなかったのですが、お城の建っている
周辺は、その建物以外には何一つない場所だったのです。

 

360度廻ってみても、1軒の家も見えません。
かといって山や高い丘のような起伏はなく、比較的
平坦な土地が広がるさまは、国外は勿論のこと
国内旅行もしない私には初めて見るものでした。

 

当時、私はかなり騒音がひどい場所に住んでいました
ので、このような静かな場所に暮らすのは夢のまた夢。
あまりの静けさに、少々の恐さも感じたほどでしたが。

 

 

六本木ヒルズ

 

 

 

ダイニングキッチンは元ステージ?

20数軒の中の1軒の、K美さんのおうちは
そのマンションの中ではメインの家でした。

 

お城だった時の主な場所が彼女の住居に改造して
あるために、K美さんの家の広さといったら
まさに「途方もない」と表現したいほどの広さ。

 

私たちが最初に通されたリビングは
時折、心地よい薪の爆ぜる音がする
いかにもヨーロッパ、という感じの空間でした。
何畳とか何十畳とかではなく、ただただ広いお部屋。

 

リビングの一部が少し高くなっていて
そこはダイニングルーム担っています。

 

なんとこのダイニングルーム、
お城だった時は舞台だったそう。
リビングが客席ということで
小ぶりの演奏会場だったということでした。

 

 


ミラーボーラー アークヒルズ

 

 

 

人里離れた奥に住まう「奥様」

S子ちゃんと私は地下にあるお部屋を
寝室として使わせてもらいましたが
それぞれの部屋にあるベッドはクイーンサイズ。

 

その大きなベッドの、これまた大きなカーテンかと
見紛うシーツには、ピシッと音がするのではないか
と思うほど、きっちりと糊付けがされて
アイロンがかかっていたのが印象的でした。

 

K美さんは、学校に上がる前の充分(?)
やんちゃな男の子と、まだ赤ちゃんといっても
いいほどの幼い女の子のお母さん。

 

 

ホワイトサカス 赤坂サカス

 

 

そのK美さんがまるでホテルのような、ここまで
行き届いた寝具を用意してくれたことに
感謝とともに驚きもしたものです。

 

後でK美さんに、それを伝えた時の返事は
「専業主婦なのだから、そのくらいしなくては」
とのことでしたが。

 

K美さんは、まわりには1軒の家も見えない
お城で暮らす、まさに「奥」さまでした。

 

 

六本木ヒルズ

 

 

 

隅にポツンとあったグランドピアノ

私たちの寝室の他に地下にあったのは、これまた
とてつもなく広い遊戯室で、あまりに広過ぎて
寒いため全てを見ることは出来ません。
また1階には、何百畳かの舞踏室もありました。

 

舞踏室の端と端にはグランドピアノがポツン、という
感じで置かれていたのが印象的で、ピアノって
日本の6畳間や10畳間に置くのではなく、本当はこんな
ふうに置ける場所にある楽器なんだよね、と妙に納得。

 

ちなみに舞踏室では、その当時は毎年、近所の方を
数百名招いた仮装舞踏会を開催していたようです。

 

 

東京ミッドタウン

 

 

 

銀のスプーン

かつて、この大きなお城には、伯爵と彼の母親の
他には、彼等に仕えていた45人が暮らしていたと
着いた日に、K美さんの夫・Pさんから聞きました。

 

K美さん夫妻に子どもが生まれた時、このマンションで
最初に生まれた子へのお祝いということで
伯爵から銀のスプーンが贈られたそうです。

 

 

 

 

また、お庭にある池は、ここで引き合いに出すのも
場違い過ぎるという気もしますが、私の通った大学の
それよりも、芸術的ではるかに立派なものでした。

 

寒さが厳しかったために、お庭はあまり
歩きませんでしたが、枯れた草がそのまま氷
になった池は、いかにも英国の冬。

 

 


東京ミッドタウン

 

 

 

自分のワイナリー

クリスマスの日、元はステージだったという
広いキッチンで、K美さんの夫のPさんは
お料理に腕を振るってくれました。
毎年、クリスマスは彼がお料理を作るようです。

 

私はメインのお料理に添えられていた
お野菜がとても気に入り、名前を聞いた
のですが、忘れてしまったのが残念。
見かけは白っぽいニンジンで、味はお芋系でした。

 

彼のお手製のお料理を頂きながら、エリザベス女王の
クリスマスのスピーチをTVで聞く時の飲物は
彼が所有するブドウ畑で作ったワイン。

 

 

ミラーボーラー アークヒルズ

 

 

 

人生を思いきり楽しむ

その後、ワイナリーは手放したとK美さんから
聞きましたが、彼はクラッシックカーも数台所有して
いるということを、日本に帰ってきてから知りました。

 

帰ってきて少したった後、日本で発刊された
雑誌の創刊号に、彼等一家が登場していて
その記事に書かれていたのです。
改めて彼等はお金持ちなのだと実感した次第。

 

Pさんは、特にお金持ちの家に生まれたと
いうわけではなかったようですが
彼一代で財を築いたということでした。

 

とはいえ滞在時は、家があまりに大きく、私のスケール
を遥かに超えていたため、お金持ち云々には
考えが及ばなかったというのが正直なところ。
存分に人生を楽しんでいることは感じられましたが。

 

 

六本木ヒルズ

 

 

 

カードに書かれた「×」と「○」

クリスマスの日、K美さん一家からいただいた
プレゼントに添えられていたカードには
彼女と夫、男の子と女の子の名前とともに、

 

「××」と「◯◯」が一緒に書かれていました。
私はS子ちゃんに聞きました。
「✖️✖️ってなあに?」と。

 

するとS子ちゃんは教えてくれたのです。
「『 ✖️ 』はキス、『  ◯   』はハグなのよ」と。
そうなんだ、へえ〜っと私は思ったものでした。

 

 

 

 

もっともこれは「✖️(バツ)」ではなく
「X(エックス)」のようです。

 

「  >  」が左の人の口、「  < 」が右の人の口で
二つが合わさってキス。

 

「  ○  」は、手を広げて相手をハグする様子
をあらわしているということです。

 

「マル」と「バツ(エックス)」が、
「ハグ」と「キス」で
「hugs and kisses for you」ということなのだとか。

 

 

 

 

日本のヤフー知恵袋等には、これは女性だけが書く
とか特別な関係の人同士でなければしない等々
ということも書かれている一方、

 

そんなことはありませんよ、
男女共に普通の友だちにも使いますよとも。

 

おそらく後者なのでしょう、K美さん一家から私へ
贈られたカードに書かれていたということは。
よく手紙の最後に書く「Yours sincerity」
「Lots of love」と同じようにね。

 

 

 

 

 

私からももちへ「 ○x○x○x  」

ぼんやりしている私はすぐには思い至らずに
かなり時間がたってから気づいたことなのですが、
前回、ブログに書いたあれ(「ホントにももちが作った
んだよ」
)ってコレのことだったのでしょうか?

 

ももちが私に残してくれたメッセージは
これだったのかもしれませんね。

 

 

 

 

大きな「✖️」に小さな「✖︎」。
ハグの「◯」は木では作れないので「——」の
形にして、「hugs and kisses for you」。

 

私も、ももちへ贈りましょう「○x○x○x」、
「hugs and kisses for you」。
ももち、大好きだよ!

 

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ホントにももちが作ったんだよ うさぎからのメッセージ5

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

161206massage

 

 

(前回の続きです)

バンバン起こし

ももちが朝、私を起こそうとする時にとる方法を
私は「バンバン起こし」と呼んでいました。

 

それは、私の胸の上を左から右に、右から左へ
バンバンと行ったり来たりを繰り返すからです。

 

当時の私は寝相が悪いこともあり、使っていたのは
セミダブルのベッドでしたが、それでも私の胸の上を
ベッドから落ちずに、行ったり来たりするのは
かなり難易度が高かったはず。

 

しかも私は、起こそうとするももちから
逃げようとして動きますしね。

 

ベッドの左側には、ベッドの高さとほぼ同じ
高さの収納家具を置いていたのですが、そこに
ももちが乗っている写真が次のもの(ボケてますが)。

 

 

161206momochilightベッドサイドテーブルの上に座るももち

 

 

ももちの右側に見えているま悪いものはライトで、
その向こう側には鏡が置いてあります。
写真の左側が、手前がベッド。

 

 

 

ベッドサイドテーブル

ももちが座っているテーブルの表面は
そのままですとツルツルして危険なので
何枚も重ねた布で包んでありました。

 

そこに直径10cmに満たない、筒型の
常滑焼の花瓶を置いたことがありました。

 

 

 

 

中には、葉っぱが全て落ちた後の枯れ木の枝が
入れてありましたが、もちろん水は入っていません。

 

ももちは時々、花瓶を倒しては
木をかじっていたようでした。

 

次の写真の中で、ももちが立っちをしている
右側の写真の、右端の方に小さく写っているものが
その花瓶と枯れ木です。

 

 

161206massagemomochi右の写真の右端に写っているのが、花瓶に挿してある枯れ木

 

 

 

「うん!?」

ある日、目を覚ましてふっとベッドサイドのテーブルに
目をやると、このようなものが目に飛び込んできました。

 

 

151206momochimateki

 

 

一瞬、もちが作ったものとは思えませんでした。
とはいえ他には誰もいません。

 

ももちの作品(?)の左上の方に円の一部のようなものが
見えますが、これはサイトテーブルの上に開いてある
ライトの大理石で出来た台座の部分です。

 

 

161206momochilightこのライトの台の部分 ↑

 

 

私は、ももちがこれを作っている制作現場を
見てみたかったとつくづく思いました。

 

とにかく写真を撮っておかなくちゃ、と
当時はカメラがなく、ももちを撮るために
用意していた、インスタントカメラで写すことに。

 

私は思わず、ももちの制作現場という
言葉を使ってしまいましたが、ひょっとしたら
これは偶然に出来たものなのでしょうか?

 

でもそうだとしたら、それはそれで
一層不思議な気もしますが。

 

 

 

 

 

翌日はバージョンアップ

ところが私の驚きは、これで終わりませんでした。
その日はももちの作品をそのままにしていたのですが
翌日は、なんとバージョンアップをしていたのです!

 

今日も、写真、写真と思いインスタントカメラを
手に取ると、何ということでしょう、

 

カメラ慣れしていない私は昨日、写真を撮った後に
オフにするのを忘れていたようで、残念ながら
写真はもう撮れない状態になっていました。

 

 

 

 

私は、証拠写真が撮れなくて、心底がっかりしました。
せっかくももちが作った作品なのに、と。

 

とはいえ、写真が撮れたにしろ、ももちがそれを
作っている動画がない以上は、ももちが作った証拠
にはならないわけですから、まあ同じなのですが。

 

ただ1つ、かえすがえすも残念なのは
写真が無理でも、せめてその模様を
スケッチしておけばよかったということです。

 

実は、私は今ではその模様を全く覚えていないのです。

 

(次回に続きます、今回も終わらずにごめんなさい)

 

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