加賀藩3代藩主・前田利常(1/3)

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関ヶ原の戦いの数年前に生まれた前田利家の四男

加賀藩3代藩主の前田利常は、息子の大聖寺藩・初代藩主の
前田利治に九谷焼の窯を築窯させ現在も残る多くの古九谷を
焼かせたり、長崎に御買物師の常駐を任じた大名でした。

 

長崎の御買物師を通じて、オランダのデルフト焼を
日本で初めて注文したのも利常です。

 

もっとも注文は4代藩主の光高の名で行われたようですが
実際のところは顧問を務めていた利常の指図のもとで行われ、
利常は手に入れたデルフト焼の意匠を九谷焼の参考に
したともいわれています。

 

利常が前田利家の四男として、利家の正妻・まつ(芳春院)
の侍女だった千代(寿福院)から生まれた時、将来
利常が藩主になろうとは、誰一人思いませんでした。

 

 

まつ(芳春院)

|ーーー利長(長男) 2代藩主

|ーーー利政(二男) 七尾城主

|ーーー幸姫(長女) 前田長種に嫁ぐ

|ーーー蕭姫(二女) 中川光重に嫁ぐ

|ーーー摩阿姫(三女)秀吉の側室、後に
|          万里小路充房に嫁ぐ

|ーーー豪姫(四女) 秀吉の養女となり
|          宇喜多秀家に嫁ぐ

|ーーー与免(五女) 浅野幸長と婚約するも
|          若くして亡くなる

|ーーー千代姫(六女) 細川忠隆に嫁ぎ、
|           後に村井長次に嫁ぐ

—————————————————–
*前 田 利 家(1537〜1599)1538、39年生説も
—————————————————–
 |     |     |     |
 |ー知好  |ー利常  |ー利孝  |ー利貞
 |(三男) |(四男) |(五男) |(六男)
 |     |     |     |
金晴院   寿福院   明運院   逞正院

 

 

利常が生まれた時、父・利家は56歳。
誕生のしばらく後、利常はまつ(芳春院)の長女・幸姫と夫
の前田長種のいる越中守山で養育されることになりました。

 

利常が父と初めて会ったのは、長種の
もとにいた1598(慶長3)年、5歳の時。
その翌年に、利家は亡くなりなっています。

 

 

利常がオランダのデルフトに注文したといわれる
「和蘭陀白雁香合(おらんだはくがんこうごう)」
石川県立美術館

 

 

 

前田利常(まえだとしつね 1593〜1658)

幼名は「猿千代」、初名は「利光」。
1605(慶長10)年、2代・利長が隠居し、利常が藩主に。

 

1623(元和9)年に、3代将軍・家光が就任後、
1626(寛永3)年、「光」の字が名前の下になるのは無礼
ということから、諱(いみな)を「利常」に改めます。

 

 

同年、従三位権中納言。
1639(寛永16)年に小松城で隠居。

 

1645年(正保2)年に、4代・光高が急死。
5代・綱紀が3歳だったことから、家光の命令で後見人に。
綱紀の正室に家光の弟の保科正之の娘・摩須姫を迎える。

 

1658(万治元)年、66歳で死去。
法号は微妙院。

 

 

 

 

謀反の嫌疑をかけられ、まつは人質に

1599(慶長4)年の利家の死後、半年ほど経った頃、
2代藩主となっていた利長が家康の暗殺を企てていると
の密告により、家康は前田家征伐の意思を表明します。

 

これに驚いた利長は、嫌疑を晴らすために使者を家康
のもとに送り、母のまつを人質として家康のいる江戸へ
送るということで解決をみました。(『前田家雑録』)

 

「(慶長五年)三月利長、横山長知及び有賀直政を
大阪に遣り家康に謁して和親を締せしめ、遂に芳春院
を徳川氏に質たらしめ、これに代ふるに秀忠の女を
利長の弟利常の配として迎へ、以て二氏の親眤を
繋がんことを約し、芳春院も亦家門の存亡に關する
大事なるが故に、敢えて関東に赴かんことを諾せり。
是を以て五月二十日芳春院は村井長頼をs
従へて伏見を発し、六月六日江戸に入る。
これより前田氏の死命全く徳川氏に制せらる。
諸侯の妻子を証人として江戸に置くの例、
亦是を以て權輿となす。」

 (石川図書館 石川県史・第二編 加賀藩治創始期)

 

 

 

 

 

利長の死去後、人質を解かれる

まつは翌1600(慶長5)年に
「侍は家を立てることが第一。されば我を捨てよ」
              (『加賀藩史料』)
と言い残して江戸にたち15年間の人質生活を過ごします。

 

人質生活中に2代藩主・利長が亡くなると、まつは
利長亡き今、私は人質として江戸にいる意味がないので
願わくば、現藩主・利常の母を金沢から江戸に呼び
私を国に返してくださいとの意を願い出て許可されます。

 

 

 

 

「利長の薨じたる後、六月上旬芳春院は將軍秀忠に
請ひて曰く、今や利長已に空しく、妾にして江戸に
在るも質として何等の價値あることなし。
願はくは今侯利常の生母壽福院を金澤より出府せしめ、
妾に暇を賜ひて國に就かしめよと。」    (同上)

 

金沢にまつが戻ったのは、1614(慶長19)年、68歳の時、
代わりに利常の母・千代(寿福院)が江戸上屋敷に到着。

 

まつは、1615(元和元)年に豊臣氏が滅亡た2年後の1617
(元和3)年に秀頼の妻に会った後、71歳で亡くなりました。

 

 

 

 

 

利常は丹羽長重の人質に

1600(慶長5)年9月、関ヶ原の戦い直前に起きた
前田利長(東軍)と丹羽長重(西軍)の「浅井畷(なわて)
の戦い」の後、敗北した長重は東軍との講和を望んだだめ
利常は人質として長重のもとに送られることとなりました。

 

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、利長は東軍につき、
弟の利政は西軍でしたが、利長が東軍についたことを重く
みた家康は、前田家を32万石から120万石へに加増。

 

家康はその際、利長に条件をつけたといいます。
「利長は隠居し、家督は利常に譲る」ことと、
「利常は家康の孫娘を正室とする」ことを。

 

 

 

 

 

家康の孫娘との婚姻、3代藩主になる

1601(慶長6)年、利常は兄・利長の嗣子となり、名を
「利光」と改め、家康の孫娘である秀忠の娘を迎えます。
その時、利常は7歳、珠姫にいたってはわずか3歳でした。

 

そして4年後の1605(慶長10)年6月、利長は10歳を過ぎた
利常に家督を譲り、自らは20万石の富山城主として隠居。

 

大坂冬の陣の前年にあたる1614(慶長19)年、
利長は豊臣方に、味方につくよう説得されます。

 

 

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その時、利長は「自分は味方するが、利常は徳川の婿に
あたるので味方できない」と繰り返し答えたといいます。

 

徳川から正室を迎えた藩主の立場を配慮する
利長は、幕府から再び謀反の嫌疑をかけられる
ことを恐れて、20万石も自ら返上しています。

 

また冬の陣の直前には、らい病で身動きすらできない体
をおし、自らの身柄を京都所司代に預けようとした利長は
冬の陣の直前、1614(慶長19)年5月に亡くなりました。

 

 

 

 

 

家康の気がかりは有力外様大名

1614(慶長19)年の大坂冬の陣、翌1615(元和元)年
の夏の陣によって豊臣家は滅亡します。

 

1616年には天下統一を果たした家康が、死を迎える際
に気がかりだったのは、有力な外様大名のこと。
利常を臨終の床に呼び寄せた家康はこう言ったといいます。

 

「お前をなんども殺してやろうと思ったが、利常に嫁いだ
珠姫の父・秀忠が反対するので助けてやったのである。
これを恩義に思って秀忠に使えるように」と。
                 (『拾纂名言記』)

 

 

 

 

この時に利常と同じ豊臣の家臣であった外様大名の
肥後藩主・加藤忠弘と、安芸藩主・福島正則も
家康に呼ばれて同様の言葉を伝えられています。

 

二代将軍の秀忠の時代に、52万石の加藤忠弘が、
三代将軍の家光の代には、50万石の福島正則が
それぞれ改易されていますので、120万石の前田家が心穏やか
ならぬ日々を過ごしていたのは想像にかたくありません。

 

そして案の定といいますか、三代・家光の代になり
前田家に再び謀反の嫌疑がかけられてしまうのですが
長くなりましたので、それは次回にお話ししましょうね。

 

   (参考/宮元健次「加賀百万石と江戸芸術
     前田家の国際交流」人文書院 2002
    磯田道史『殿様の通信簿」新潮社2006
    石川県立図書館・石川県史)

 




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