「綱の手引き坂」「綱坂」「綱町三井倶楽部」 

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綱町三井倶楽部

「二の橋」を渡り「日向坂(振袖坂)」の先にあるオーストラリア大使館
(B)を御紹介しましたが、そのお隣の8千坪の広大な敷地に建っている
のは「綱町三井倶楽部(つなまちみついくらぶ)( C)」です。

 

「綱町三井倶楽部」
 108−0073 港区三田2丁目2−3−7 03−3453−3011)

 

 

     ( B)オーストラリア大使館  ( C)は綱町三井倶楽部

 

 

三井グループの関係者専用のクラブで、一般には公開されていません。
1913(大正2)年にイギリスの建築家、ジョサイア・コンドル
(Josiah Conder 1852-1920)の設計により建てられました。

 

1877(明治10)年、日本の洋式建築の指導のために来日したコンドルは
1890(明治23)年に教職を退官後も日本に留まり、多くの建造物を設計。
日本で1920(大正3)年に死去するまでの約40年間で
80ほどの作品を残しています。

 

現存するのはニコライ聖堂と清泉女子大学(旧島津邸)等数作品のみで
この綱町三井倶楽部の建物は中でも最高傑作といわれています。

 

 

 ジョサイア・コンドル作「綱町三井倶楽部」(写真・綱町三井倶楽部)

 

 

 

ジョサイア・コンドルの最高傑作

建物の外観の意匠は、左右対称の英国の伝統的な
ヴィクトリアンスタイルを基調とした宮殿づくり。
内部は談話室前のベランダ・バルコニーのアーチはルネサンス様式。

 

吹き抜け丸天井はステンドグラスをはめ込んだビザンチン様式で、
1、2階ホールの吹き抜け部分、庭園側のベランダ、バルコニーの
曲線部はバロック様式というように、さまざまな様式を混用。

 

ですが西洋一辺倒ではなく、西洋建築ではおそらく大理石を使うで
あろうと思われるホールの主な柱には、あえて檜の芯のみを使用した大柱
を使用するなど、和と洋がバランスよく取り入れられているそうです。

 

コンドルの晩年の傑作のみならず、明治、大正時代を通して
最も優れた建築作品の一つといわれる綱町三井倶楽部の建物も
2013(平成25)年12月に、本館ができて100周年を迎えました。

 

戦後の一時期は、米軍の接収ということもあったそうですが
1953(昭和28)年からは三井各グループの共同利用施設となり、会員各社
の賓客接待や結婚式にと、三井グループの迎賓館として活躍しています。

 

 

140814kanposeimeihoken       かんぽ生命保険 サービスセンター本館

 

 

 

かんぽ生命保険 東京サービスセンター本館

綱町三井倶楽部の斜め前にも、これまた大きな建物があります。
こちらは「かんぽ生命保険 東京サービスセンター本館」で
以前は「簡易保険局庁舎」といっていた建物。

 

(「かんぽ生命保険 東京サービスセンター本館
 108-0073 港区三田1丁目4-60 )

 

かんぽ生命保険などというと、ちょっと庶民的な響きでもありますが
この建物はかなり巨大に聳え立っているという表現がふさわしいほど。
写真ですと実際の大きさがあまり感じられないのが残念ですが。

 

簡易保険は、1917(大正6)年に逓信省により創設されました。
2007(平成19)年の郵政民営化により民間生命保険に
なりましたが、それ以前は国営の生命保険事業でした。

 

1920(大正9)年に貯金局とともに、逓信省内に設置され
最初の建物が関東大震災で焼失してからは、木造の仮庁舎の時代が
続きましたが、1929(昭和4)年に現在の建物が竣工。

 

貯金局庁舎も同時期に建てられて、そちらは麻布台の方で
現在は麻布郵便局として活躍中です。

 

 

「かんぽ生命保険 東京サービスセンター( D)」
の前が「綱の手引き坂(紺色の線)」

 

 

 

「綱の手引き坂」

この「かんぽ生命保険 東京サービスセンター本館( D)」の前から
左(東)に向かっては「綱の手引き坂」という坂が始まっています。

 

「二の橋」から始まるピンク色の上り坂が「日向坂(振袖坂)」で
しばらく平地が続き、「かんぽ生命保険 東京サービスセンター」の
前で、下り坂の「綱の手引き坂」へと続いているのです。

 

「綱の手引き坂」の「綱」というのは渡辺綱のこと。
この辺りは平安時代の勇士、源頼光四天王の一人である
渡辺綱が生まれた場所といわれています。

 

 

 

 

渡辺綱が幼い頃に姥に手を引かれてこの坂を行き来をした
であろうということで「綱の手引き坂」という
坂の名としてはちょっと面白い名前がついています。

 

「綱の手引き坂」以外にも「三田綱坂」「渡辺坂」
「馬場坂」とも呼ばれている坂です。
(港区三田1丁目〜2丁目)

 

「綱町三井倶楽部」の「綱町」も渡辺綱からきている地名で
この近辺では、「三田綱◯◯」というマンション名やビルを
見かけることもしばしば。

 

 

watanabenotuna           勝川春山 渡辺綱 戻橋

 

 

平安時代中期に頼光四天王の筆頭として活躍した渡辺綱は
953(天歴7)年にこの地で生まれ、1025(万寿2)年2月15日に
亡くなったといわれ、渡辺源次、渡辺源二という別名を持ちます。

 

渡辺綱以外の頼光四天王は、卜部季武(うらべの すえたけ)と
碓井貞光(うすいの さだみつ)、坂田公(金)時(さかたの きんとき)。
坂田金時って、あの「♫ ま〜さかり担いだ金太郎〜」の金時ですね。

 

渡辺綱の武勇伝は数々あれども、最も有名なのは鬼の腕をとったお話。
京都の一条戻橋で渡辺綱に腕を奪われた鬼が後日、取り返しに来る
などという凄まじいお話を子どもの頃に読んだ記憶があります。

 

ということから私は、どこで誤変換を起こしてしまうのか
「渡辺綱」と聞くと、条件反射的にすぐ「鬼」が思い浮かび
挙げ句の果てが、「渡辺綱=鬼」となってしまうのです

 

ですから「綱の手引き坂」などと聞くとついうっかり、鬼でもやっぱり
幼い頃はあって、そんな可愛い子ども時代には、姥に手をつないで
もらって歩いていたのだなぁ、などと思ってしまったりして……。

 

違う、違う! 渡辺綱は鬼ではなくて退治した方、と思わず自分に
つっこみを入れたりしますが、渡辺綱は鬼どころかかなりイケメン
だったそうですので、ホント申し訳ないです、鬼なんて言っちって。

 

鬼の腕を奪ったお話は、謡曲の「羅生門」となって現在まで残ります。
また渡辺綱は、主君の頼光が正四位下・摂津守に叙された後、
正五位下・丹後守に叙されたということです。

 

 

「かんぽ保険生命 東京サービスセンター( D)」の前から
「綱町三井倶楽部(C)」の横を通って行くと「綱坂(緑の線)」

 

 

 

「綱坂」

「かんぽ生命保険 東京サービスセンター本館( D)」の前から
「綱町三井倶楽部( C)」の横を進んでいきますと
緑色の線で描いた「綱坂」が現れます。

 

こちらも渡辺綱に因んだ坂名ですね。
「綱坂」に接している「綱町三井倶楽部」の敷地の中には
綱が産湯を使ったという「渡辺綱の産湯の井戸」があります。

 

敷地内の大きなイチョウの木のそばにあるそうですが
この井戸は大きな自然石をくりぬいて井戸枠が作られているそう。

 

私は石の枠の井戸というのは見たことがありませんが
右側の写真は、そばにある石碑だそうです。
1メートルほどの高さがあり風化していて、歴史を感じるものだとか。

 

 

     自然石をくりぬいて作られた井戸枠と「石碑」(右)

 

 

有名な加賀千代女の「朝顔につるべ取られてもらい水」という句が
作られたという井戸がこの近くにあることは以前、御紹介しましたが
有名な句を作った井戸どころか、加賀千代女は江戸にも来ていなかった、

 

という、なんちゃって千代女の井戸でした。(「加賀千代女は江戸に
来ていなかった! 赤羽橋の朝顔の謎」

渡辺綱の産湯の井戸はどうなのでしょう。

 

実は、渡辺綱はこの辺りではなく埼玉で生まれたともいわれていますが
一つならずも二つもの坂名に名が残り、地名等にも三田綱が多く使われて
いることから、渡辺綱とこの地には何やら強い繋がりと縁も感じますね。

 

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仙台藩伊達家下屋敷沿いの大きな坂「仙台坂」 麻布の坂4

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160712sendaizaka

 

 

「振袖坂」とは対照的な「仙台坂」

二の橋から続いている「日向坂」の別名が「振袖坂」という名前
だったことから、私は勝手に「振袖坂」の名は「仙台にある同名
の坂から来たものではないか」
との妄想を書いたことがありました。

 

「振袖坂(日向橋)」のほんの少し先には「仙台坂」があります。
「仙台坂」の名前の由来は、仙台藩伊達家下屋敷
があったことから命名されたものです。

 

 

160814hyugazaka「日向坂(振袖坂)」

 

 

下の江戸時代の地図では、水色の「・・・」で囲ったところが
仙台藩伊達家(松平陸奥守)下屋敷の場所。

 

水色の線「———」が「仙台坂」です。
ピンク色の線が「———」が「振袖坂(日向坂)」ですが
「仙台坂」の高低差や長さに比べて、やさしい穏やかな坂です。

 

 

hyugazakasendaizaka・・・」で囲んだ部分が仙台藩伊達家下屋敷
———」が仙台坂   「———」が振袖坂

 

 

 

現在は韓国大使館

下の写真を撮ったのは、「仙台坂」の左端。
左端が一番高くて、右に向かって下り坂になっています。

 

元麻布1丁目と南麻布1丁目の間を通る「仙台坂」は、かなり長くて
傾斜もある、大藩の仙台藩に相応しい坂然とした坂。

 

 

160712sendaizaka「仙台坂」右が南麻布1丁目で、左は元麻布1丁目

 

 

この写真の場所から少し下った右側には現在、韓国大使館があります。
本当は韓国大使館の写真も撮りたかったのですが、入口に警察官
(警備員?)が棒を持って立っていたので、撮りそびれてしまいました。

 

実はその時、財布を落としたのに気づいて韓国大使館の前を2往復
行ったり来たりとウロチョロしていて不審者と間違えられないかなと。

 

 

仙台藩伊達家の家紋「竹に雀」

 

 

 

最初の上屋敷は外桜田

ここ麻布にあった仙台藩伊達家の屋敷が下屋敷だったことは間違いない
ようですが、実は屋敷の上中下の呼称と、数、場所は江戸時代を通して
一定ではなく変化しているので、とてもわかりにくいのが実情です。

 

仙台藩伊達家の最初の江戸屋敷は、1601(慶長6)年に
徳川家康から外桜田に与えられたもので、1661(寛文元)年
まで上屋敷として使用されていました。

 

江戸初期の段階では4カ所だった、仙台藩伊達家の
江戸屋敷は、幕末には7カ所に増えています。

 

 

kuromaiinaho370

 

 

 

1841(天保12)年に幕府に提出した仙台藩の記録

上屋敷 芝口3丁目(港区東新橋1丁目 旧JR汐留駅構内)  25,819坪

中屋敷 愛宕下(港区西新橋3丁目)             10,842坪

下屋敷 麻布(港区南麻布1丁目 韓国大使館周辺)      21,293坪

下屋敷 品川大井(品川区東大井4丁目)      2,134坪と借地1,006坪

下屋敷 大崎袖ヶ崎(品川区東五反田3丁目)  16,680坪と抱地5.990坪

蔵屋敷 深川(江東区清澄1丁目)           5,396坪余預地50坪余
                  (「江戸に仙台を見る」

 

 

 

1702(元禄15)年12月15日の早朝

1841(天保12)年の記録にある上屋敷は、最初に賜った外桜田の屋敷
とは異なり、1641(寛永18)年に幕府から与えられ、1676(延宝4)年
以降。幕末まで上屋敷として機能した「浜屋敷」と呼ばれるものです。

 

この仙台藩伊達家の「浜屋敷」の表門前に、1702(元禄15)年
12月15日の早朝に、赤穂義士の一団が通りかかりました。

 

本所の吉良邸の討ち入りを終え、主君の浅野内匠頭の墓所
高輪泉岳寺へ向かう途中の赤穂義士たちでした。
仙台藩士は赤穂義士を呼び止め、お粥をふるまったといわれています。

 

 

160519kousogenmai

 

 

この時のお米は、うるち米を蒸して乾燥させた「干し飯(ほしいい)」
と呼ばれる軍糧(ぐんりょう)として作られていたものでした。

 

軍糧(ぐんりょう)とは、軍隊の食料、兵糧(ひょうろう)のことで
仙台糧として特定の製造所で作られていた特産品だったとか。

 

「干しいい」は「糒」という、見たこともない難しい漢字ですが
「干し飯」は「ほしめし・ほしいい」といわれたお米で作る保存食。

 

仙台藩士が赤穂義士に、干し飯で作られたお粥をふるまった
と聞いた時に、私は最初、不思議な気がしました。
なぜわざわざ、あのような乾燥してかたいもので作ったのだろうと。

 

「あのような」とはいえ、私は干し飯を実際に見たことはないの
ですが、炊いた御飯を乾燥させカラカラにしてあるもののようですし。
などと考えていたら、思い出しました、大昔に読んだ『伊勢物語』を。

 

 

160602arisugawakoenhanashobu

 

 

 

「乾飯の上に涙おとしてほとびにけり」

「昔、男ありけり」の在原業平が京から東に下る途中、カキツバタの花が
咲いていたことから、「カキツバタ」の5文字を入れて句を詠みました。

 

ら衣 つつなれにし ましあれば
*              るばる来ぬる びをしぞ思ふ」

 

(着慣れた唐衣のように、親しんだ妻を都に置いてきて
カキツバタの花を見ると、はるばる来たのだなあとしみじみ思う)

 

という句ですが、これを聞いたその場の皆が悲しさで涙を落とすと
食べていた乾飯(かれいい)がふやけてしまったというお話。

 

 

images干し飯

 

 

 

「仙台藩特製 干し飯」

この時代の人はよく泣いたようですが本当にそんなに泣いたの?という
のは今回は置いておき、乾飯(かれいい)がほとびる、柔らかくなった
ということは簡単に柔らかく、食べられるようになるということ。

 

今の私たちが想像する以上に、お湯さえ用意すれば簡単に
お粥に変身する、インスタント食品なのかもしれません。

 

赤穂義士たちがお粥が出来上がるのを広間で待つ、などありえません
から、本当にあっという間に用意することができたのでしょう。

 

 

130121azuki

 

 

つまり長期保存が可能で、かつすぐに食べられるということ。
仙台市の『東京に残る正宗公ゆかりの地』によりますと、
「仙台糧として特定の製造所で作られていた仙台藩の特産品」とか。

 

自慢の特産品であり、現代だったならばさしずめ
特許取得の「仙台藩特製 干し飯」だったのかもしれませんね。

 

表高62万56石4升4合、実高は支藩であった一関藩を含めて
18世紀初頭には100万石を超えていたという、さすが
諸藩のなかで第3位の石高を誇る仙台藩伊達家だけあります。

 

真冬の早朝に思いもかけない、温かいお粥にあたたかな心遣い、
赤穂義士たちにはさぞ美味しく感じられたことでしょう。

 

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明暦の大火「振袖火事」 9歳の心優しき将軍・徳川家綱

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160814hyugazaka

 

 

「振袖坂」とも呼ばれた「日向坂」

前回、御紹介したお洒落な「レーベルカフェ」は「日向坂(振袖坂)」
沿いにあるカフェでしたが、「日向坂」がなぜ別名「振袖坂」と
呼ばれているかについては不明ということでした。

 

名前の由来は、ひょっとしたら「振袖坂」の少し先にある
仙台藩伊達家の下屋敷で暮らしていた人々が、故郷・仙台の「振袖坂」
を懐かしんで呼び始めたのでは?、との私の妄想も御紹介しましたが。

 

「日向坂」が「振袖坂」とも呼ばれていたと知った時、私は
すぐに振袖火事を連想したのですが、これは違うようでした

 

 

160814hyugazakaue  「二の橋」から上ってきた「日向坂(振袖坂)」はここで終わり

 

 

 

日本史上最大の「明暦の大火(振袖火事)」

1657年3月2日(明暦3年1月18日)から二日後の3月4日(1月20日)まで
続き江戸の殆どを焼きつくし、江戸時代最大のみならず、関東大震災や
戦時の東京大空襲を除くと、日本史上最大の火事といわれた明暦の大火。

 

その当時の将軍は、第3代・徳川家光の長子の第4代・徳川家綱
(在職期間は、1651・慶安4年〜1680・延宝8年)でした。

 

家綱は11歳で将軍を継承したと記されていますが、11歳というのは
当時の年齢の数え方であり、10歳のお誕生日前に将軍になって
いますので、現代の感覚では、わずか9歳で就任したということ。

 

 

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将軍就任の年には、家光時代に改易されて浪人となった由井正雪、
丸橋忠弥による倒幕未遂事件「慶安の変」も起こりましたが、
叔父にあたる保科正之や、家光時代からの重臣・酒井忠勝、
松平信綱、阿部忠秋の寛永の遺老に支えられて無事、乗り越えます。

 

その後、29年にも及ぶ安定政権を維持し、武力の武断政治から
文治政治へと変化を見せた時代でもありました。

 

保科正之を主導者にし、外様大名への一定の配慮、末期養子禁の緩和、
大名証人制度の禁止、殉死禁止令などの改正がなされています。

 

 

140411yoake

 

 

 

危篤状態の時の酒盛り(!)

歴代将軍のなかで、描いた絵が一番多く残っているのは家綱だということ
ですが茶の湯を好み、幸若舞を舞うなど芸術を好んだ人でもありました。

 

子どもがなく病弱だった家綱は1680(延宝8)年、病に倒れ危篤状態
のなか、堀田正俊の勧めで末弟の館林藩主・松平綱吉を養子に定めます。

 

家綱が危篤状態の際に江戸城二の丸では、回復を祈るとの名目で
酒井忠清、稲葉政則、大久保忠朝らにより800人を超える酒宴が開かれ
また、逝去の直前には徳川光圀が分厚い書物を家綱に献上したそうです。

 

それらは彼等が家綱を軽くみている故の行為だったということですが
もし、本当にそうであったとしたら何とも信じがたい思いです。

 

養子を決めた直後の1680年6月4日(延宝8年5月8日)、
家綱は40歳を前に死去していますが、これによりはや5代目にして
徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れたことになります。

 

 

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咎められる者が出ないよう

家綱は信頼できる名臣等に「左様せい」と政務を任せていた
ことから「左様せい様」という、あまり褒め言葉ともいえない
あだ名が付けられたともいいます。

 

しかし一方、家綱には次のようなエピソードも多く残されています。
将軍就任から間もないまた幼い頃、江戸城天守閣に登った際に
家綱はお側の者が遠眼鏡を勧められました。

 

自分は少年ではあるが将軍である、遠眼鏡で見下ろしたことを
世人が知ったら嫌な思いをするに違いないと断っています。

 

 

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また食事の際に、家綱の汁物に髪の毛が入っていたことが
ありましたが、家綱は平然と箸で取り除きました。

 

あわてた小姓が用意した新しい椀に、家綱は言います。
「その汁は捨て、椀を空にして下げるように」と。

 

これはあたかも普段のおかわりの様に装うことで
咎められる者が出ないようにという家綱の配慮でした。

 

 

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ある時、流罪の話を聞いた竹千代と名乗っていた頃の家綱は、罪人は
何を食べているのだろう?、と問いましたが答えられる人はいません。
命を助けてなぜ食を与えないのか、という家綱の言葉に家光は喜びます。

 

「これを竹千代(家綱)の仕置きはじめにせよ」と家光は言い、これ以降
流罪に処せられた罪人にも食料を与えるようになったということです。

 

自らはひもじい思いをしたことはないであろう家綱が、他の人へ思いを
馳せたという話が事実か否かはわかりませんが、このような話が数多く
伝えられていることからも、そのような人柄であったように思われます。

 

 

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明暦の大火後

1657(明暦3)年、大火が起きた時は、すでに将軍となり月日も経って
いたとはいえ家綱は15,6才、陣頭指揮を執ったのは保科正之でした。

 

明暦の大火で焼失した本丸を再建するだけでも100万両という
膨大な資金が必要であり、天守閣の再建は見送られます。

 

大火に学んで、防衛上のため千住大橋しかなかった隅田川に両国橋を
架設、橋の袂には「火除地」を設置して、建造物を造ることを禁止。
例外として、すぐに取り壊せるものに限り、許可されました。

 

それにあうものとして土俵がつくられ、ここから両国は
相撲の町として有名になっていったということです。

 

 

130225hisimoti

 

 

 

「振袖火事」の名前の由来

そこで「明暦の大火」を、なぜ「振袖火事」と
呼ぶのかということなのですが、

 

これは本郷丸山の妙本寺で、供養のために火に投じた振袖が
風にあおられ火元となったから、という説明がなされています。

 

一目惚れをした美少年が着ていたものと同じ模様の振袖を作って
抱いていたという、江戸の大店の娘が恋の病で亡くなりました。

 

 

150114hanabiramoti

 

 

娘の棺とともにお寺に行った振袖は、後に町で売られて17歳の少女
のものになりましたが、その娘も亡くなり、振袖は再びお寺に。

 

また別の少女のものになった振袖でしたが、あろうことがその少女も
亡くなり、3度お寺に戻った振袖は供養のために火に投じられました。

 

前年の11月から、80日間も雨が降っていなかった乾燥していた日、
強い風に煽られ火のついた振袖が、まるで人が立ち上がるかの様に
起き上がって飛んで行き、江戸の町を焼きつくしたというのです。

 

 

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本当は……

ということなのですが、これは作ったお話とされています。
なぜならば、当時は火元になったお寺は、50年間は再建が許されない
はずでしたが妙本寺は何のお咎めもなく、すぐに復興しています。

 

その上、多大な迷惑を被ったであろうお隣の老中・阿部忠秋の
家からはその後、毎年多額の供養が届いているという事実。

 

一説には、人口が急増した江戸の町の再開発のために放火をした
という幕府放火説もありますが、これはあり得ないと思いますね。
江戸城が焼失するようなことを、幕府がするはずはないでしょう。

 

となりますと一番頷けるのは、妙本寺のお隣の阿部家出火説。
これですと火元であるはずの妙本寺がお咎めなしで、すぐ再建、
阿部家からの関東大震災まで毎年の多額の供養と全て筋が通ります。

 

 

130912akasakaaomousagi

 

 

阿部家の当主・阿部忠秋は、明治時代の歴史家・竹越与三郎から
「(酒井忠清・松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の
風あるは、独り忠秋のみありき」(『二千五百年史』)といわれる
ほど能力があったのみならず、人柄もまた素晴らしかったようです。

 

何人もの捨て子を連れてきては、優秀な奉公人として育て上げ
子どもの遊ぶ姿を見ることを何よりも喜んだ人だったといいます。

 

責任感も強かったと伝えられていますので、よんどころなく火事の
火元の責任を負わせてしまったことに深く心を痛め、自身が亡き後も
必ず供養を忘れるでない、とでも言い遺したのかもしれません。

 

徳川幕府崩壊後は、妙本寺も阿部家出火説を主張しだしたということ
ですが、これは少々いただけないといいましょうか、おかしいですね。

 

 

130215ugusiro

 

 

 

「切り放ち」の制度化

明暦の大火による死者の数は、正確にはわからない
ものの、3万人から10万人といわれています。

 

人々が炎と煙に苛まれ逃げ惑っている時に、あまり思いが
及ばないことではありますが、牢屋の中にも人はいました。

 

小伝馬町の牢屋奉行・石出帯刀吉深は、後で必ず戻ってくる
よう伝えて、罪人たちを逃がす「切り放ち」を独断で実行。
涙を流し感謝した罪人達は後に、一人も欠けることなく戻りました。

 

吉深は、老中に死罪も含めた罪一等を減ずるように
上申し叶えられましたが、これがきっかけとなって
緊急時における「切り放ち」が制度化されたということです

 

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