マンションの通路でお葬式をする家族

「あぷりのお茶会」へようこそ!

 

 

 

今日は、幽霊の話じゃないけどね

今日でお盆も終わります。
13日がお盆の入りで今日、16日がお盆明けですね。

 

一昨年の7月のお盆には、マンションのゴミ置場で私が
会った一家は幽霊だったのかもしれないという体験を、
「私が会ったのは……、幽霊? 存在しない居住者」

 

その2年前の8月15日には小学生の時に一緒に
暮らしていたイヌのお話をさせていただきました。
「死後にお別れを言いにきたイヌ『ペリ』」)

 

こうしてみると、お盆になると何とはなしにこのような
話をしてきましたが、今日は幽霊の話ではありませんよ。
でも、生きている人のお話でもないのです。

 

 

 

 

 

お隣に越してきた一家

その出来事があったのは今よりもう少し涼しい季節、
とはいえ冬の寒い時ではなく、春か初夏だったでしょうか。

 

当時、私が住んでいたマンションは1つの階に
十数軒が暮らしている外廊下式のよくあるタイプ。

 

建物はL字型に建っていて、「L」の字の縦の棒「 I  」と
横の「 _ 」がぶつかる部分にエレベーターがありました。

 

うちは「 _ 」の部分の一番右から一つ手前、つまり
うちの右の家が建物の端の部屋ということになります。

 

 

    □| |
    □|外|
    □|廊|
    □|下|____
    □|______
      E □□□□□

 Eはエレベーター がうちで、がお隣

 

 

お隣はマンションができた当初から女性が一人で
お住まいでしたが数年後、54歳という若さで亡くなり
持ち主が移転して半年経つか経たないかといった頃。

 

今度のお隣さんは4人家族のようでした。
最初、家族構成の内訳は両親とすでに成人している
二人の子と思っていたのですが、どうも違ったようです。

 

男女2人ずつのきょうだいか、あるいは両親と男の子に
妻の妹が同居なのか、そのあたりはわかりませんでしたが
男女2名ずつで暮らしているように思われました。

 

私は、女性の一人暮らしだった前の住人の時に
そのお宅へ何度がお邪魔をしたことがありますが、
70㎡以上ある3 LDKですので、4人暮しも可能な広さです。

 

 

 

 

 

部屋の中と外廊下を隔てているのは窓ガラス1枚

わが家の間取りは、角部屋ではなく真ん中に挟まれている部屋
としてはよくあるタイプのもので、玄関を入ると廊下があり、
突き当たりはリビングで、リビングに接して和室が一つ。

 

玄関の両側には廊下を挟んで2つの部屋があるという
間取りが多いですが、うちは部屋は一つだけで
もう片方は大きめの収納という造りでした。

 

図が上手に描けなくてもうしわけないのですが
こんな感じでピンク色の部分がうち、緑色はお隣です。

 

 

______________
     ●●●● 外廊下
______________
 |    |玄関| | 玄関
 |    | |   (お隣の)
 | 部屋 ||  
 |    ||    |
 |    | |    |
       ↓
     リビング等

 

 

ピンク色で「部屋」と書かれている部分が
外廊下に接している玄関脇の部屋。
窓があって、当然のことながら外の音はよく聞こえます。

 

考えてみますと玄関脇のこの部屋の窓のそばに
立っている時に、外廊下に人がいたとしたら、
ほんの数十センチ先に人がいることになるのですね。

 

そう考えると不思議な感じもして、ちょっと怖くも
ありますが、マンションとはそのようなものでしょう。

 

 

 

 

 

外がなんだか騒がしくて

そして問題の日がやってきました。
その日はお昼頃から、うちの玄関の前で何やら人の気配が。

 

実はその少し前にもお隣が、多分お風呂の取り替え
と思われる工事をうちの前でしていたことがありました。

 

うちのお隣は端だったこともありお風呂場の工事の作業は
お隣の玄関のドアの前というよりは、うちの玄関のドアと
外廊下に面した部屋の窓の前でしていたのです。

 

ですから問題の日に外で物音がした時も、また何かの工事
をしているのか、あるいは家具の搬入のために一時的に
外廊下で作業をしている物音なのかと思っていました。

 

 

 

 

 

何人もの人がいる気配

ところがその物音はなかなか終わりません。
前回のお風呂場の工事の時よりもはるかに
長い時間が経っていたのですが。

 

それだけではなく人の数も多くて、大きな話し声では
ないものの、かなりの人数がいることが伺えます。

 

しばらく時間が経った時に、一体、何が起きている
のかと様子を見るために、私は外廊下に面している
窓をほんの少しだけ開けてみました。

 

 

 

 

 

窓の少し先には……

わずか1,2センチほど窓を静かに開けてみると
そこには10人以上の人が立っていました。
どなたも私が窓を開けたことに気づいていないようです。

 

窓の先にあるものを目にした時、それが
何なのか、私は全く理解できませんでした。
わかった瞬間アッという言葉を飲み込んで窓を閉めました。

 

そこには青白い人の顔が……、
私が目にしたのは、亡くなった人の顔だったのです。

 

もう一度、先ほどの図を示します。
部屋から、マンションの外廊下に面している窓を開けて
みると、そこにあったのは「棺(●●●●)」でした。

 

 

______________
     ●●●● 外廊下
______________
 |    |玄関| | 玄関
 |    | |   (お隣の)
 | 部屋 ||  
 |    ||    |
 |    | |    |
       ↓
     リビング等

 

 

棺には、年配の男性が横たわっていました。
左側が頭だったので、私の顔のほんの少し先に亡くなった
お隣の御家族の父親と思われる人の顔があったのです。

 

今考えてみましたら、左側は南なんですよね、
反対だと北枕なので、そうだったら私と顔が合うことも
なかったのに、などと今更のことを思ったりして。

 

私はすぐに窓を閉めたものの驚き、呆気にとられていました。
亡くなっている方ですので目が合う、ということは
ありませんでしたが、本当に目の前に顔があったのですよ!

 

 

 

 

 

狭い通路に置かれた棺

うちはごく普通のマンションですから外廊下の通路の幅は
1メートルとちょっと、1,5メートルはないでしょう。

 

その狭い通路に、棺の頭の方をうちの窓の隣に、
足の方はうちのドアの前あたりに置いていました。

 

お風呂場の工事と違ってことはお葬式、もし私が知らずに
外出のためにドアを開けたらどうなっていたのでしょう?
葬儀屋さんもいるようでしたので彼が一言、言って
くれてもよかったのではないかという気もします。

 

 

 

家でお葬式をしない理由は?

しかし、それ以前に、家の外でお葬式をするなど
今まで一度も考えたことも聞いたこともありません。
しかもお隣は6畳一間の狭い家というわけでもないのに。

 

たとえ部屋が片付いていなくて棺を置く場所が
なかったとしても、わずか1時間ほどのことです。
一つの部屋に荷物を積んでおくことも可能なはず。

 

1メートル幅の通路でお葬式をしているスペース分の
広さを作ることができないとはとても思えませんでした。

 

 

 

 

お隣の御家族のうち、一番若い方にはお目にかかった
ことはありませんが、他の3人は50代から60代と思われ
今の若い人は……、という年齢でもありません。

 

何の心の準備もないまま、数十センチ程の位置で亡くなった
方の顔を目にするという驚きに加え、父親のお葬式を外で
するという前代未聞の家族に、私は複雑な思いでした。

 

その時はうちにはうさぎの「あぷりしゅがぁ」がいてくれ
ましたので、棺の中の顔が目に入った後、すぐ窓を閉めて
私はあぷりしゅがぁと息を飲んで顔を見合わせました。

 

 

 

 

 

色々面白かったマンションでしたが

そういえば、あぷりしゅがぁの前にうさぎの「ももち」
がいた時は、深夜の3時頃に知らない女の人が
ドアを蹴りながら叫んでいたこともありましたっけ。

 

「『なぜ人の家に入り込んでいるんだ、警察を呼ぶ』
とドアを蹴る、深夜に現れた見知らぬ人」

 

その人は、私が説明をしてもハイヒールでドアを蹴るのを
一向にやめる気配がなく仕方なく警察に来てもらった、といい
ますか、その女性が「警察を呼べ!」と息巻いていたのですが。

 

 

 

 

考えてみると、色々面白いことがあったマンションでした。
通路でのお葬式があったから、というわけではないのですが
ほどなく、私は18年間住んだ場所から越すことになりました。

 

入居する時は、一生暮らすつもりだったのですが。
でも、まあ越したからこそ、このような話もできるわけで。
まだ隣に住んでいたら、無理だったでしょう。

 

何事も形ではなく心が重要だということに異論はありません
が、それでもやはりマンションの通路でのお葬式とは
お父さん、ちょっと可哀想すぎる気がしますね。

 

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ネコやイヌまでをも供出させる戦争

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「氏家法雄 ‏@ujikenorio」2015年6月7日のツイート

2年ほど前の6月7日に、氏家さんという方が
このようなツイートをしていらっしゃいました。

 

「昭和17年の夏、役場から突然『猫を供出せよ』とのお達し…
『アッツ島を守っとる兵隊さんのコートの裏毛になるんじゃ』
『女の気持ち:私の猫』毎日新聞2012年8月3日付。
タバコ吸いにリビング横切ったらタマが起きた。
俺は絶対いややで。」

 

毎日新聞に掲載されていた「私の猫」と題する、戦時中に
ネコを供出させらるという経験をなさった方の投稿を
お読みになった氏家さんが呟いた言葉です。

 

「おれは絶対いややで」。
兵隊さんのコートの裏毛にするためにタマを供出するなんて
絶対に、絶対に「いややで」と思われたのでしょう。

 

このツイートに添えられていたのが、このネコの写真。
そう思ってみるせいなのかもしれませんが、タマちゃん、
単に可愛いというだけではなく、いかにも何かを
言いたげなちょっと戸惑ったような表情にも見えます。

 

 

タマちゃん(写真/氏家法雄さんのツイッターから)

 

 

 

「毎日新聞」2012年8月3日の記事

氏家さんのツイートにタマちゃんの写真とともに
添えられていた毎日新聞の記事「私の猫」はこちらです。

 

 私の猫

「昭和17(1942)年の夏、岡山に住んでいた。
役場から突然『猫を供出せよ』とのお達しがあった。
うちの飼い猫は、私が物心ついた頃から我が家にいた。
名前はタマという。

 

学校から帰り、『タマ』と呼ぶと、『ニヤッ』と
答えるだけで、いつもかまどのそばで丸くなり
寝ている老いた猫だった。

 

「猫をどねーするん?」。
役場の人に尋ねると、
『アッツ島を守っとる兵隊さんのコートの裏毛になるんじゃ。
アッツ島は寒うてのう。零下40度にもなるんじゃ。
お国の役に立つんじゃ、めでたい』と言った。
そして次の日の昼までに役場に連れてくるように
指示して、帰った。

 

私は母に言った。
『山に隠そうや。お墓の裏なら、誰にも見つからんで……』。
しかし、母は首を横に振った。
『そねーなことをして見つかったら大事じゃ。
憲兵に連れて行かれる。軍のお達しじゃ、聞かないけん』
と言い返してきた。

 

私は泣きながら、近所の神社へ走った。
神社には大きな杉が6、7本あり、南側は川だった。
そこはどこからも見えないので、大声で泣いた。

 

『タマは殺されるんじゃ。
毛皮にされるんじゃ。可哀そうじゃ』。
升で量りたいほど涙が出た。
顔が腫れていた。

 

夕方、家に帰ると、タマはもういなくなっていた。
私のいない間に父が連れて行ったようだった。

 

アッツ島で日本軍は玉砕している。
私の猫はどうなったのだろう。
夏休みの時期になると思い出す。

         大阪府八尾市 主婦 79歳」

 

 

 

 

 

私の主治医の体験

何度見ても悲しすぎる毎日新聞の記事を読んで
私は同じような話を思い出しました。
かなり前に歯医者さんで聞いた話です。

 

こちらはネコではなくシェパードの「ミラー」というイヌ。
この話をしてくれた歯医者さんの父親も歯科医でした。
ミラーという名前は診察の際、口の中に入れて
歯をみる鏡「ミラー」からつけたそう。

 

当時、5歳になったかならないかという年頃の私の主治医は
毎日新聞に投稿していた女性より、少し年下と思われますが
今でもミラーのことが心に大きな傷として残っているようです。

 

私自身はイヌやネコの供出の話はその時に初めて知って憤り
や悲しみは感じましたが、それ以前に不思議な気もしました。
お寺の鐘などの金属類を供出させた話は聞いたことがあります。

 

でもコートの裏毛のために、ペットのネコやイヌの
毛が必要なんて一瞬、信じられなかったのです。
まさか、そんなこと……、と。

 

 

 

写真は本文とは関係ありません
草むらで保護されたイヌの
シーズー犬は子猫を守ってました

 

 

 

「 NHK 北海道  NEWS  WEB」2017年8月11日

ですが残念ながらこの信じがたい酷いことは事実です。
昨日の「NHK  NEWS  WEB」にこのような記事がありました。
「戦地に姿を変え送られた犬やネコ」(北海道 NEWS WEB)

 

この記事によりますと、イヌやネコの毛をコートの裏毛に
使用する取り組みは、北海道が全国に先駆けておこなった
ものでその後、全国に広がっていったということです。

 

北海道内では、1944(昭和19)年から人々に供出を呼びかけ
終戦までにおよそ7万匹のイヌやネコが処分されました。
この数は、あくまでも北海道内のみでの数字です。

 

 

 

 

そうして供出されたイヌやネコが、次にどのように
なるかを目撃した人の動画もつけられていました。
加藤光則さん、83歳の体験です。

 

当時10歳だった加藤さんは、後志の共和町に住んで
いましたが、学校からの帰り道で、皮を剥ぎ取られた
イヌやネコが積み上げられているのを目撃します。

 

「イヌやネコが雪の中に毛皮になって、丸裸になった
やつは片側にずっと分けて積み上げてある」という
加藤さんの次の言葉が最初、私には理解できませんでした。

 

「生きたまま血だらけで逃げたのは今でも目に焼き付いている」
という言葉なのですが、何度かその部分を再生し、また文章
を読み返すことでやっと私は理解することができたのです。
このむごすぎる文章の意味が。

 

「毎日の生活の家庭の中に直接戦争が入り込んでくるんだと。
鉄砲の弾が飛んでくるとか爆弾が落ちるという形で入って
くるんじゃないんです」と語る加藤さん。

 

 

 

こちらは、目の見えない友達(左)を助けるイヌ

 

 

この動画には、供出の経緯について調べている
地域史研究者の西田秀子さんも出ています。

 

「撲殺されて毛皮にされて兵隊さんの防寒着になったり、
帽子になったりして戦場に姿を変えていくわけなん
ですけど、それが実際のリアルな戦争の姿ですよね。
その状況っていうのは想像してみなきゃならない。
そのために、体験者の話を実際に聞き取ってみなさんに
伝えていくことが私の仕事じゃないかと思っています」

 

と西田さんは話していました。
日常生活に戦争が入り込んでくることの恐ろしさ、
実際のリアルな戦争のむごたらしさ……。

 

それを私たちが実際に体験しないようにするには
何をしたらよいかを考える段階も過ぎて、今は
もう実際に行動する時期が来ているのかもしれません。

 

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宇和島藩初代藩主・伊達秀宗は、伊達政宗の長男

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

六本木にあった宇和島藩・上屋敷

前回、愛媛県西予市の「山田まんじゅう」をご紹介しましたが
江戸時代、西予市は宇和島藩の宿場町として栄えた町です。
その宇和島藩の江戸藩邸・上屋敷は、麻布にありました。

 

当時は麻布龍土町という地名でしたので「宇和島藩麻布屋敷」
と呼ばれていましたが、今の住所でいうと六本木7丁目。

 

現在その場所には、国立新美術館、
政策研究大学院大学などが建っています。

 

 

宇和島藩伊達家の上屋敷があった「国立新美術館」六本木

 

 

麻布には仙台藩伊達家の下屋敷もありましたので、
江戸時代、麻布には宇和島藩伊達家の上屋敷と、
仙台藩伊達家の上屋敷があったことになります。

 

下の地図では、上の方が宇和島藩の上屋敷、下が仙台藩の下屋敷。
宇和島藩伊達家があるのは、東京ミッドタウンの正面あたりで、
六本木ヒルズを挟み宇和島藩伊達家が上で、仙台藩伊達家が下です。

 

宇和島藩伊達家の上屋敷は、36,051坪の広い敷地であるのに対し
港区南麻布1丁目にあった仙台伊達家の下屋敷は、21,293坪。
東新橋にあった仙台藩伊達家の上屋敷でも25,819坪だったそうです。

 

 

 

(地図の上の方) 宇和島藩伊達家 上屋敷 36,051坪
(地図の下の方) 仙台藩伊達家 下屋敷  21,293坪

 

 

 

仙台藩主・伊達政宗の長男と生まれながら

伊予宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗は、仙台藩の初代藩主
である伊達政宗の長男として生まれ、当初は2代仙台藩主にと
目されていたものの、諸事情からそれは叶いませんでした。

 

その理由としては、秀宗の母親が正室ではなく側室だったからと
いわれていましたが、実はそうではなく別の事情だということです。

 

1591(天正19)年に、兵五郎という幼名の秀宗が、陸奥国の
村田城で生まれた時、政宗の正室・愛姫(めごひめ)には男子が
長い間無生まれなかったために、待ち望まれた世子誕生でした。

 

しかしわずか3歳の1594(文禄3)年、父・政宗に
伴われて秀吉に拝謁した後、人質として秀吉に差し
出された兵五郎は伏見城で暮らすことになります。

 

 

 

 

 

秀次事件

秀吉が甥である秀次に、跡を託した後の1593(文禄2)年、
淀殿が秀頼を出産すると、秀吉はことのほか喜びようでした。
前田利家夫妻を仲人にして、生まれたばかりの秀頼を
後継者・秀次の1歳の娘と婚約をさせるなどと考え出す始末。

 

そして翌1595(文禄4)年、突如秀次に謀反の嫌疑がかけられ
瞬く間に秀次の切腹と、妻子等39名の処刑という事件が発生します。

 

この処刑は京都の三条河原に40メートル四方の堀が掘られた中で、
秀次の子の遺体の上に、その母、侍女,乳母等の遺体が次々と
無造作に折り重なっていくという酷いものだったといいます。

 

 

 

 

 

 

秀吉のもとで元服し「豊臣」秀宗に

この秀次事件の後、秀吉は伊達政宗に起請文を出させています。
「もし政宗に逆位があれば、直ちに隠居して兵五郎を
当主に立てる」という内容の誓約でした。

 

1696(文禄5)年9月、兵五郎は豊臣秀吉の猶子となり元服。
秀吉から偏諱(へんき、名前の一時をもらうこと)を受け
「秀宗」と名乗るとともに、従五位下侍従に叙位、任官。
3歳の秀頼のお側小姓となります。

 

 

 

 

 

そのわずか2年後の1698(慶長3)年、秀吉が死去、
1600(慶長5)年には、五奉行の石田三成等が五大老の
徳川家康に対して挙兵し、関ヶ原の戦いが始まりました。

 

秀宗は、石田三成方の宇喜多秀家のもとで人質となり、
1602(慶長7)年には、徳川氏の人質になることに。

 

いくら戦国の世とはいえ、現在でいえば小学校を卒業する
までに、3度も人質として各地を転々とさせられたのです。

 

 

 

 

 

異母弟・忠宗が誕生

その頃、父・伊達政宗と正室の間に男子が誕生しました。
後の仙台藩2代藩主となる伊達忠宗、幼名・虎菊丸です。
翌年の1月、政宗は虎菊丸を家康に拝謁させています。

 

一方、秀宗は家康に、徳川四天王の一人で重臣であった
井伊直弼の娘・亀を正室するよう命じられます。

 

1611(慶長16)年、弟の虎菊丸が江戸城で元服し、将軍・秀忠
から忠の字をもらい、忠宗と名乗ることになりました。

 

 

 

 

 

 

理不尽な藩主除外

豊臣秀吉から「秀」をもらい一時は豊臣姓を名乗り秀頼に仕えた
秀宗は、伊達家の長男とはいえ徳川の世で仙台藩主となるのは
ふさわしくない、これが藩主になれなかった理由だといいます。

 

しかし私は、これに大いに疑問を感じざるをえません。
人質となった秀宗が、親の反対をおして勝手に伏見城に
行ったわけではなく、親の命令に従ったまでです。

 

当時、兵五郎はわずか3歳、仙台を離れたくはなかったでしょう。
今でいう小学校1年生で既に小姓として秀頼に仕えていますが
それらも全て、政宗をはじめ周囲の大人が決定したこと。

 

 

 

同じ「秀」だし、ってダメ?

自らの意思で秀吉の家臣だった武将達が、全て遠ざけられた
というわけでもないのに、親の意思に幼児の時から従った子が
父・政宗の跡を継ぐことができないとは、なんとも理不尽です。

 

確かに弟の名前は、秀忠から一時をもらったものではあります。
徳川秀忠から「忠」の字を賜り虎菊丸 (弟) →「忠宗」に対し
豊臣秀吉から「秀」の字を賜り兵五郎  (兄)→「秀宗」と。

 

ですが幸い(?)といってもはなんですが、秀吉も秀忠も
ともに「秀」の字ががついているのですから、ここはひとつ
「『秀宗』の『秀』は『秀忠』の『秀』から賜ったことにする」
などという新しい解釈にするとかなんとか……。

 

 

 

 

 

例えば現在の日本に目を転じてみても、離婚後も結婚して
いた時の氏を使う人もいますが、この時、結婚していた時の氏
である「伊達」は、離婚後に名乗っている氏の「伊達」とは、

 

「民法上の氏は異なる」などという、わけのわからない
説明が、21世紀の日本でもなされているわけです。

 

秀宗は、秀吉の人質であり、家康の人質でもありました。
であるならば「秀」の一字の解釈など、いかようにも
できそうなもの、などというおしゃべりはこれくらいにして。

 

 

 

 

 

参陣の功として

そのような中、秀宗は父とともに1614(慶長19)年、大阪冬の陣に参陣。
いくさ後、徳川から政宗に伊予宇和島10万石が与えられました。

 

政宗はそれを秀宗に譲りたいと申し出て許されたこと
から秀宗は、10万石の伊予宇和島藩主となったのです。
仙台藩の支藩ではなく、国主格(国持)大名としての扱いです。

 

秀忠からは、西の伊達、東国の伊達と相並ぶよう命じられたと
いいますが、これは有力外様大名である伊達家の東西分断、かつ
豊臣家に近い秀宗を四国に遠ざけるためだったともいいます。

 

 

 

 宇和島藩伊達家の家紋

 

 

 

仙台伊達家からの「家臣」と「借財」が紛糾の元に

政宗は伊予宇和島に向かう秀宗につける家臣を、仙台藩伊達家
家中から選び出し、また藩主交代が続いて藩の財政が疲弊して
いた宇和島藩のための初期の資金として6万両を用意します。

 

一説には3万両ともいいますが、何れにせよ大金には違いなく、
それらの返済に関して宇和島藩では紛糾の原因となりました。

 

1615(慶長20)年の3月18日、伊達秀宗が宇和島城に
入城したことにより、宇和島藩が正式に成立しました。

 

仙台伊達家からの多額の借財とともに、仙台藩からきた家臣と
そうでない藩士との間で揉め事が生じ、殺人にまで至ります。
一時、政宗は激怒して秀宗を勘当したそうですが、後に和解。

 

このことがあり、父子の関係はかえって良好になったといいます。
長男でありながら家督を継げなかったこと、また長期にわたる
人質生活のことなどを、父・政宗に訴えることができたからです。

 

 

 

 

 

伊達政宗の長子

秀宗は仙台藩の支藩と扱われることを嫌いました。
将軍・家光と御成之間での対面の折には
弟の忠宗より上座に着席したともいわれます。
石高は少なくとも忠宗より年長であるとの意思表示でしょう。

 

父・政宗から「唐物小茄子茶入」や、秘蔵の伽羅の名香「芝舟」
を贈られた秀宗は、父と同様に和歌の才に秀でていたことから
和解後は、和歌の交歓をしながらも藩政に力を注ぎます。

 

1622(元和8)年に遠江守を叙任し、
1626(寛永3)年には従四位下に昇位。
そして1636(寛永13)年、政宗死去。

 

 

こちらは細川家所蔵の香木「白菊」ですが、実はこれ
「一木四銘香」といい四つの名前を持っている香木で
政宗から秀宗に贈られた「芝舟」と同じ香木です

 

 

 

維新まで続いた宇和島藩

1657(明暦4)年7月21日に、秀宗は世子の宗利に家督を譲って
隠居し、8月16日には、五男の宗純に伊予吉田藩を分知。
これにより宇和島藩は7万石、吉田藩は3万石となりました。

 

翌1658(明暦4)年、6月8日江戸藩邸にて死去、68歳。
死後の翌日、宮崎八郎兵衛、高島太郎衛門が、
18日は神尾勘解由、23日には渡辺左衛門が殉死したといいます。

 

 

 

 

秀宗後は、2代・宗利(むねとし)、3代・宗賢(むねよし)、
4代・村年(むらとし)、5代・村候(むらとき)、
6代・村寿(むらなが)、7代・宗紀(むねただ)、
8代・宗城(むねなり)、9代・宗徳(むねえ)
と宇和島藩伊達家は、江戸末期まで存続しました。

 

多くの家がそうであるように、血縁としては途中で耐えたため、
3代は仙台藩主家から宗賢(むねよし、秀宗の弟)を迎えています。

 

また8代藩主・宗城は、土佐の山内容堂、福井の松平春獄、
薩摩の島津斉彬とともに「幕末四賢侯」と称され活躍しました。

 

 次回は、六本木の宇和島藩伊達家上屋敷跡
  からの出土品についてです、また見てね〜!

 

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