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トマトの原産地はアンデス山脈の太平洋側地域
今の日本では、スーパーマーケットに
行って「トマト」を売っていない、
ということはありませんね。
それほど「トマト」という野菜は、私たちの
日常と深く結びついていますが、このトマト
原産地はどこだか御存知ですか?
南米のペルーを始めとした、アンデス山脈
の太平洋側の地域が発祥の地、
という説が最有力だそうです。
植物学者たちの調査によって
これらの地に、野生種の「トマト」が
自生していたことがわかっています。
その「トマト」は、今でいう「ミニトマト」の
「チェリートマト」のようなものだそうです。
この写真が「チェリートマト」です。
栽培の発祥地としてはメキシコ
アンデス高地に自制していたこの
「チェリートマト」が、メキシコに運ばれて
食用として栽培されるようになりました。
メキシコに運ばれた、という方法も
はっきりとはわかっていないようです。
人間や、鳥や動物が食べた後、タネを排泄して、
そこから発芽……、ということを延々と繰り返して
アンデスからメキシコへ辿り着いたのです。
つまり原産地はアンデスで、栽培の発祥地
としてはメキシコということになります。
メキシコからヨーロッパへ
メキシコで栽培されるようになった「トマト」は
その後に、ヨーロッパに渡ることになります。
きっかけはコロンブスの新大陸発見です。
たくさんのスペイン人が新大陸にやってきて
ヨーロッパに持ち帰ったとされています。
「トマト」に出会った最初のヨーロッパ人としては
エルナン・コルテスという説が最も有力です。
エルナン・コルテスは1521年に
アステカ文明を征服しました。
うん?、これちょっと前に
このブログで出てきましたよね。
そうそう、「チョコレートのお話」のところでした。
カカオ豆もやはり、エルナン・コルテスが
スペインへ持ち帰ったのでしたね。
カカオ豆やトマトや、色々なものをいっぱい
スペインに持ち帰っちゃったコルテス
コルテスが持ち買った当初、トマトは観賞用
それではヨーロッパでは、エルナン・
コルテスが持ち帰った「トマト」を
すぐに栽培し始めたのかといえば、さにあらず。
最初は観賞用だったといいます。
その理由としては、強い匂いと、またあまり
に鮮やかな赤い色が災いしたようです。
その上、ナス科の植物には麻酔作用が幻覚作用が
あるものも多いため、「トマト」も最初はそ
のような有毒な植物の仲間と思われていたよう。
それでは、人々がいつ「トマト」を食べる
ようになったのかといえば、それは飢饉のため
食べるものがなくなり、仕方なく「トマト」を
食べたのではないかということです。
この説が本当かは、まだはっきりとわからない
そうですが、ヨーロッパで最初に「トマト」を
食用として栽培するようになったのは
イタリアだということは確かなようです。
アメリカの市場に流通したのは19世紀半ば
さきほど「トマト」を初めて栽培したのは
メキシコと書きましたが、メキシコのお隣の
アメリカに「トマト」が渡ったのは、ヨーロッパ
に渡った時期より200年以上あとのことだそう。
アメリカの第三代大統領、トーマス・
ジェファーソンが1781年に自分の家の庭で
「トマト」栽培を始めたという記録も
残っているそうです。
トーマス・ジェファーソンが、大統領に
なる前のバージニア州知事の時ことです。
そして個人では栽培もされていたようですが
「トマト」がアメリカの市場で流通するように
なったのは19世紀も半ばになってからといいます。
「トマト」栽培は結構、歴史の短いものなのですね。
日本へは17世紀半ば,徳川家綱が将軍の時代
とざっと「トマト」が世界を巡って旅をした
お話でしたがそれではこの「トマト」日本に
やってきたのはいつかといいますと、
17世紀半ばのことだそうです。
江戸時代、徳川でいいますと4代将軍の時代。
徳川家綱の御用絵師である狩野探幽が
「唐なすび」と称して、1668年に
スケッチをしたものが残されています。
「唐なすび」「唐ガキ」と呼ばれる
「トマト」の最初のスケッチは狩野探幽の
「唐なすび」で1668年の作でしたが、
文献上に現れるものとしては貝原益軒の
『大和本草』で、こちらは1709年のこと。
『大和本草』のなかでは
「トマト」は「唐ガキ」と呼ばれています。
「唐なすび」と「唐ガキ」、と表現されていますが
「なすび」と「かき」、どっちが似ているでしょう?
ということではなくて……。
狩野探幽の描いたのは「カボチャ形トマト」
しかしここだけの話、私は狩野探幽の
トマトはちょっとカボチャに見えて
しまいます(うそ、うそ!)。
今、念のために調べましたら、なんと狩野探幽
の描いた「トマト」は、観賞用「トマト」で
「カボチャ型トマト」というものでした。
カボチャ型トマト
(写真/「トマトのカタログ」)
私たちが普通イメージするような
「トマト」より平べったい形で
ヘタから下にかけてシワが多いです。
だから狩野探幽の「唐なすび」に描かれた
「トマト」がカボチャに似て見えたのですね。
なんだ、狩野探幽さん、上手だったんじゃない(←!)
生食用になったのは大正時代以降
と気を取り直しまして、観賞用だったトマトが
日本で生食用となったのは大正時代以降のこと。
カゴメの創業者である蟹江一太郎は、
1899年(明治32年)に、愛知県にあった
自宅の脇に「トマト」を始め、いろいろな
西洋野菜のタネを蒔いたそうです。
栽培した西洋野菜は、ホテルや
西洋料理店などに販売していましたが
「トマト」だけは全く売れません。
苦肉の策として、舶来のトマトソース
をお手本として、1903年(明治36年)
トマトピューレーを作ります。
1908年(明治41年)にはトマトケチャップと
ウスターソースの製造も開始したそうです。
そして一気に飛びまして、現在では日本人は
週に一度は加工品も含めた「トマト」を
食べるようになりました。