ふぐの薄造り「春帆楼」東京店 

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

160109shunpanro     籠盛り御膳「春帆楼」東京店(写真/N子ちゃん)

 

 

「春帆楼」東京店

お正月も終わって少したった頃に、久しぶりに会ったお友達と
これまた久しぶりのふぐ料理を楽しんできました。

 

お店は初めて行った「春帆楼」東京店。
2012年(平成24)にできたお店です。
住所は千代田区平河町になりますが、赤坂見附駅から歩いてもすぐ。

 

春帆楼(しゅんぱんろう)東京店
千代田区平河町2-7-9 JA共済ビル内 03-5211-2941)

 

ふぐのコースはちょっと無理でしたので、ふぐの薄造りのついた
籠盛り御膳に、日本酒の地酒が楽しめるメニューを選択しました。

 

 

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大吟醸「東洋美人」

地酒はお友達のN子ちゃんが選んでくれた大吟醸を冷やで頂くことに。
名前は「東洋美人」というだけあって、ほんのりと甘くて優しいお酒。

 

「なんといっても『東洋美人』だからね」とわけのわからない
ことを言いあいつつ頂きましたが、私は日本酒は本当に久しぶり。

 

軽くてジュースのように飲めてしまう口当たりのよい日本酒でした。
大きめのワイングラスに入ってきましたよ。

 

 

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「河豚禁食令」

今回訪れたのは「春帆楼」東京店ですが本店は言わずと知れた下関。
ふぐといえば「春帆楼」というほど有名ですね。
なんといっても日本のふぐ料理公許第一号というお店ですから。

 

「春帆楼」がふぐ料理公許第一号店となったのは1888(明治21)年の
ことでしたが、それ以前は豊臣秀吉以来の河豚禁食令がありました。

 

とはいってもふぐを食する人は絶えず、ふぐ中毒が増加したため
法律で「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていたとか。

 

 

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「春帆楼」の始まりは目医者さん?!

今でこそふぐの「春帆楼」ですが、もともとは医院でだったそうです。
江戸時代の末に、豊中中津奥平藩’(大分県)の御殿医だった
藤野玄洋は自由な研究をするために御殿医を辞して、医院を開業。

 

医院での長期療養患者のために、薬湯風呂や娯楽休憩棟が用意され
藤野玄洋の妻のみちが食事を采配することになりました。

 

玄洋は1877(明治10)年には別の地に「月波楼医院」を開業。
玄洋が亡くなった後の明治15年頃、伊藤博文の勧めにより
みちは「月波楼医院」を改装して割烹旅館を開きます。

 

 

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命名は伊藤博文

「月波楼医院」を改装した割烹旅館は、それまでの
「月波楼」から「春帆楼」に名を改めました。
名前を付けたのは伊藤博文。

 

「春帆楼」は伊藤博文、高杉晋作、山縣有朋などの
維新の志士達に愛されたお店でもあります。

 

「春帆楼」の名前の由来は
春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様
から名づけられたそうです。

 

 

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場所が全然違いますが…… 歌川広重「隅田川葉桜之景」
(絵/「ウィスコンシン大学マディソン校」

 

 

 

打ち首覚悟でふぐ料理

1887(明治20)年の暮れ、当時総理大臣であった
伊藤博文が「春帆楼」に宿泊します。

 

その日は海が大時化で漁ができず、困り果てた
女将のみちは打ち首覚悟で禁制のふぐをお膳に……。

 

伊藤博文は、すでにふぐを食した経験がありましたが
あたかもその時初めてという顔で「こりゃ美味い」と賞賛します。

 

そして翌年、山口県令(知事)に命じて禁を解かせ
「春帆楼」はふぐ料理公許第一号となりました。

 

 

daa4bb27下関の前田砲台を占拠したフランス陸戦隊
(写真/「面白きこともなき世を面白く」

 

 

 

下関戦争

1853年6月3日にアメリカ海軍提督ペリーが浦賀に来航、
翌年の日米和親条約締結、と日本は開国への道を歩み出します。
そしてそれは尊王攘夷の討幕運動へと進むことでもありました。

 

開国以来、攘夷運動の気運のたかまる長州藩は
下関海峡を渡る米国商船を砲撃しましたが翌月、アメリカ・
イギリス軍艦から報復攻撃を受けてあえなく敗退。

 

翌年には米、仏にイギリス、オランダも加わった四カ国連合軍から
砲撃を受けて、長州藩はわずか1時間で壊滅状態となります。

 

その後、下関戦争の講和会議がもたれましたが
正史に抜擢されたのが高杉晋作、副史が杉孫七郎、
そして通史(通訳)が伊藤博文という面々でした。

 

 

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左が高杉晋作、右が伊藤俊輔(博文)
(写真/「面白きこともなき世を面白く」)

 

 

 

日清講和条約会議の舞台にも

そして時代は明治に変わり1896(明治28)年4月17日、
「春帆楼」は日清講和条約締結の会議の場として選ばれています。
全権大使としてこの条約の締結に尽力したのは伊藤博文。

 

その後、1937(昭和12)年に、日清講和会議を後世に伝えるために
下関「春帆楼」の隣りに日清講和記念館がつくられました。
講和会議が行われた部屋を当時の調度のまま再現してあるそうです。

 

伊藤博文とともに下関戦争の講和会議の副史として活躍した
杉孫七郎は、討幕運動に獅子奮迅の働きをした後、
明治政府の高官として千代田区の平河町に居を構えました。

 

現在「春帆楼」東京店のある場所は、明治大正期に活躍した
山口県出身の政治家、杉孫七郎の屋敷跡だということです。

 




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