「麻布」の名前の由来は? 「一の橋」 古川の橋13 

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古川の橋

今年の最初の投稿は「一の橋」。
「二の橋」をご紹介してから随分、時間がたってしまいましたが
今日の「一の橋」で、古川に架かる橋はおしまいです。

 

港区を流れる唯一の川である古川は、渋谷区では渋谷川と
呼ばれていますが、港区に入ってからは古川と名前を変えます。

 

 

     「天現寺橋」付近 下の地図では「 o  」の付近

 

 

港区に入って最初の橋である「天現寺橋(a)」から
古川は、ほぼ直線で右(東)に進み、

 

「古河橋(J)」で直角に曲がって、方向を上(北)に変えて流れます。
そして、また直角に右(東)に進み始める起点が「一の橋(o)」です。

 

 

古川の橋天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

「一の橋」以降は、「中の橋’(r)」や「赤羽橋(s)」を
過ぎてからは港区芝に入り、芝公園や浜離宮恩賜庭園(はまりきゅう
おんしていえん)の側を通った後、浜松町で東京湾に注いでいます。

 

 

      「天現寺橋」付近  安藤広重『広尾ふる川』

 

 

 

古川の源流の一つは玉川上水

1653(承応2)年に完成した玉川上水の余水は、現在の新宿御苑内
で池を作り、そこからの流れが古川の源流となりました。

 

1657年の「明暦の大火」後の都市改造に伴ない
古川の拡張工事が計画されることとなります。

 

1675(延宝3)年には、麻布山付近に大名屋敷や
寺社仏閣を造営にあたり、江戸湊までの最後の1キロほど
が運河として再整備されることになりました。

 

新しく作られた運河は「新堀川」と名付けられ
一方、運河の終点である麻布十番から、上流の川は
「古くからある川=古川」と呼ぶようになったといいます。

 

古川の下流は現在流れている場所よりも、もう少し南に
寄っていたという説もあるようで、それによりますと
この工事の際に本流が現在の場所に付け替えられたとのことです。

 

 

  「四の橋」の向かい側  麻布御殿(白金御殿)があった付近

 

 

 

綱吉の別邸づくりのために古川を拡張

1697(元禄10)年、現在の南麻布に将軍・綱吉の別邸
「麻布御殿(白金御殿)」が造られることとなり
その建設資材を運ぶための改修工事が行われることになりました。

 

また将軍が直接、船で古川をさかのぼって麻布御殿に入ることが
できるよう川幅を広げる工事や、掘り下げも行なっています。

 

普請のための土運びや資材を運ぶ人足場を、古川の河口から「一番」、
「二番」と順に設けていき、その十番目にあたる「十番組」が
現在の麻布十番と呼ばれる近くであったことが、「麻布十番」の
地名の由来といわれています。(「渡辺淳『東京風情』」)

 

 

         川幅が広くなっている「二の橋」

 

 

1699(元禄12)年には、川幅の拡張をする際、麻布十番付近に
あった岡田将監(しょうげん)の屋敷の西側が召し上げられ
新堀堀割となって「一之橋」と「二之橋」が架けられました。

 

「麻布御殿(白金御殿)」は、綱吉が2度訪れただけで
わずか数年後には火事で焼失してしまいましたが
工事で拡張された新堀川の川沿いは賑わいを増したようです。

 

「一之橋」のたもとには1716〜1736年(享保年間)の頃から
新河岸と呼ばれる荷揚げ場ができるようになり
近隣の住宅へ、薪や炭を運ぶ役目も果たすことになりました。

 

 

160906itinohashi              「一の橋」

 

 

しかし、かつては大名屋敷を中心とした市街地が形成されて活気を
見せていた街も、明治40年代に入りトロリー電車が通るように
なると、水上交通の役割は急激に少なくなっていったようです。

 

 

 

「一の橋」

赤羽川の合流口でもある「一の橋」は、三田1丁目から麻布4丁目に
かかる銅橋で、現在の橋は1983(昭和58)年に改修されたものです。

 

次の写真は、首都高一ノ橋ジャンクションの下から撮ったもので
写真の下につけた地図でいいますと「一の橋(o)」、
「一の橋公園橋(p)」のあたりになります。

 

 


 

 

 

「中の橋」でヒュースケン暗殺

なお、この地図をご覧になってもお分かりの通り、
「一の橋(o)」の右側には、まだいくつかの橋が残っていますが
「中の橋(r)」と「赤羽橋(s)」は昨年ご紹介しています。

 

中の橋(r)」(「『中の橋』で暗殺されたアメリカ公使館の通訳、
ヒュースケン」
)だけをご覧いただくつもりが、お隣の「赤羽橋(s)」
や古川を遡って「天現寺橋」というように、

 

古川に架かるいくつもの橋から昔の話を教えてもらうように
進んでいくうちに、今回の「一の橋」までたどり着きました。

 

 

              「中の橋」

 

 

 

ヒュースケンの暗殺を計画したとされる
清河八郎も「一の橋」で暗殺

なお「中の橋」で、アメリカ公使館の通訳だったヒュースケンを襲った
伊牟田尚平、樋渡八兵衛らの計画を、裏で画策したともいわれる
清河八郎自身も、後にこの「一の橋」で暗殺されています。

 

横浜の外国人居留地焼き討ちなども計画していた清河八郎が
佐々木只三郎、窪田泉太郎など8名の幕府の刺客によって
暗殺されたのは、1863年4月13日の夕暮れ時でした。

 

28歳で命を落としたヒュースケンと、34歳で暗殺された清河八郎。
「一の橋」付近は激動の幕末期の舞台となった場所でもあったようです。

 

 

        「うぐいす」と「梅」 赤坂「青野」

 

 

 

「麻布」の名前の由来は?

「麻布十番」の名の由来は、上に記したものですが、「麻布(あざぶ)」
の由来は諸説あり、はっきりしたことはわからないのだとか。

 

「麻布」という表記は、1713(正徳3)年頃からこの辺り一帯が
「町方」に指定されて町奉行の管理下に置かれた以降である旨の記述が
「文政町方書上」にみられるということです。(南麻布富士見町会)

 

麻布善福寺にある「北条氏朱印状」(1566・永禄9年)や
「豊臣秀吉朱印状」(1590・天正8年)では、「麻布」を
「阿佐布(阿左布)」「浅生」「浅府」「麻生」「麻田(あさふ)」
と記載しています。

 

 

 

 

 

色々な説

多くの麻を植えて布を織っていたことが地名となったという説が一般的
なものですが、草が浅々と(あっさりと)生えていたという説、

 

善福寺に麻が降り、そこから麻布留山(あさふるやま)
というようになって、それを省略したという説、

 

あるいはアイヌ語の「アサップル(船で渡るの意)」とするもの、
「アサム(底、奥)」から転じた、
などともいわれますが、結局のところはっきりとはわからないそうです。

 

なお、現在の「麻布」という地名は、江戸南西部のかなり広い部分を
指していますが本来は、麻布木村から善福寺周辺、現在の南麻布1丁目〜
3丁目、元麻布1丁目、2丁目あたりを「麻布」と呼んでいました。

 

 

 

 

 

芭蕉の句ではなかった「鶯を……」

ところで麻布といえば、芭蕉の「鶯を たずねたずねて 阿佐婦まで」
が有名ですが、実はこの句は芭蕉の作ではないということです。

 

しかも「鶯を たずねたずねて 阿佐婦まで」ではなく
  「鶯を たずねたずねて 阿佐婦かな」が正しいとか。

 

芭蕉のうぐいすの句では「鶯や 柳の後ろ 藪の前」
などがあるばかりで、あざぶの句はありません。

 

ちなみのこれは、薄暗いところを好んで低空飛行する落ち着きのない鶯が
柳の前にいたかと思うと、今度は藪の前にいる、という様を詠んだもので
『蕉翁句集』では1692(元禄5)年とするものの、1694(元禄7)年、
芭蕉51歳の時の作だそうです。(「伊藤洋のページ」)

 

この句がどなたの作かは今のところわかりませんが
うぐいすの鳴く、春はもうすぐですね。

 




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