炭酸せんべい(カルルス煎餅)「有馬せんべい本舗」

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

150924tansansenbei

 

 

カルルス煎餅=炭酸せんべい

前回「ゴーフル」をとりあげた時に
ゴーフルのもととなったお菓子が
カルルス煎餅だということを知りました。

 

カルルス煎餅とは「炭酸せんべい」のこと。
地方によっては「鉱泉せんべい」ともいうようです。

 

私は以前から「炭酸せんべい」と聞くたびに
不思議な気がしていました。
私にとって炭酸とは、シュワシュワシュワ
となるこれ( ↓ )だからです。

 

 

120831suntryiso

 

 

これがどうして、おせんべいなの?
と単細胞かつ科学に弱い私は思っていたのです。

 

 

 

原材料の一つに温泉の炭酸泉水を使用

「炭酸せんべい」の材料の一つ、鉱泉と認定
され、飲むことも可能と認められた炭酸水が
使われているから「炭酸せんべい」というのですね。

 

今日の「炭酸せんべい」の原材料を見てみますと
小麦粉、砂糖、澱粉、塩、炭酸泉、重曹となっています。

 

 

150924tansansenbei「炭酸せんべい」有馬せんべい本舗

 

 

小麦粉等をあわせたものに、温泉の炭酸泉水
を加えて型を使って焼きます。

 

作っているのは神戸市北区有馬町の
株式会社 有馬せんべい本舗。
有馬温泉の炭酸泉水を使っています。

 

 

 

誰も近寄らない「毒水」?

「炭酸せんべい」に使われている有馬温泉の
炭酸泉ですが、1873(明治6)年に鉱泉と
確認する以前、人々は「毒水」と呼んで
近づくこともなかったといいますから驚きです。

 

けれど、ここでまた疑問が……。
有馬温泉は日本三古湯の一つで
枕草子でも三名泉に数えられていますよね。

 

少し前にブログでとりあげた、後白河法皇と
建春門院が1176(安元2)年に行った、との
記録も残っていますが、毒水と呼んで近づく
こともなかったということとは矛盾します。

 

その理由は、有馬温泉には泉源が4つほどあるから。
そのうちの1つが先ほどの炭酸泉でしたが
他の3つは1300年以上もの歴史がある
日本最古の温泉として親しまれていたのです。

 

 

blog_import_5153659f60087静岡のマスクメロンサイダー

 

 

 

炭酸泉が生んだもう一つのものは「サイダー」

しかし毒水と恐れられていた泉源も1875(明治8)年
には、飲むことも、また浴用にも適する
天然の炭酸水であると判定されました。

 

地元の有志により、泉水が雨露を防ぎながら気泡が
発生するように泉脈を導き、絶えず湧き出るように
整備されたのが1886(明治19)年のこと。

 

1901(明治34)年には炭酸水を利用して日本初
のサイダーが作られましたが、残念なことに
製造は1926(大正15)年で終わっています。

 

 

 

水と炭酸泉水の違い

炭酸水は、すぐシュワシュワが消えてしまう
ようにも思えるのですが、おせんべいにそのような
炭酸水を使うメリットとは何なのでしょう?

 

実は「炭酸せんべい」に炭酸泉を使った
場合は、水で作ったおせんべいとは
全く異なる仕上がりになるのだとか。

 

炭酸泉を使わないとおせんべいが固くなり、
色も焦げ茶色のような濃い色になってしまうようで
シュワシュワの気泡は、おせんべいに成型しても
きちんと働いているのですね。

 

 

effervescence_3

 

 

 

各地で様々な名前で

今回は有馬温泉の炭酸泉で作られる「炭酸せんべい」
を御紹介しましたが、もちろん他の温泉でも
同様のものが作られています。

 

同じ兵庫県の豊岡市の城崎温泉、宝塚市の宝塚温泉は
「炭酸せんべい」と呼んでいますが、

 

愛媛県の道後温泉では「温泉煎餅」、
三重県の榊原温泉では「七栗せんべい」、
長崎県の雲仙温泉は「湯せんべい」、
群馬県の磯辺温泉は「磯辺せんべい」というようです。

 

 

Karlsbader-Oblateカルルスバードで売られている煎餅

 

 

 

カルルスとは地名のカルルスバードから

次の写真は、チェコの温泉地で売られている焼菓子
(Lázeňská oplatka)で、これが日本で
カルルス煎餅と呼ばれるものです。

 

これが売られていたのはチェコ・ボヘミアの
西部にある、世界的に有名な温泉地
カルロヴィ・ヴァリ(Karlovy Vary)。

 

カルロヴィ・ヴァリのドイツ名が「Karlsbad,
Carlsbad(カルルスバード)」であること
から、カルルス煎餅と名づけられました。

 

 

凮月堂ではカルルス煎餅は「ゴーフル」へ

 

 

カルロヴィ・ヴァリは地理的にはチェコ
ですが、この焼き菓子を作ったのは
ドイツ系の人々だったそうです。

 

このカルルス煎餅がいつ日本に入ってきたのか
といいますと、前回の「ゴーフル」の時に
凮月堂社史にこのような記載がありました。

 

「1889(明治22)年、米津恒次郎が留学から帰国。
日本人で初めて本格的フランス料理を修め、
ウエハース、マシュマロ、
サブレ、ワッフル、
英国式の重厚なフルーツケーキ、カルルス煎餅
など
日本になかったお菓子の最新技術を持ち帰る」

 

 

140830hugetudosabure凮月堂「ゴーフル」へ

 

 

ということは凮月堂は初めてカルルス煎餅を
日本で作ったといってもいいのでしょうか?

 

有馬温泉での「炭酸せんべい」作りの歴史を
見ましても、1889年以降のようですから、東京から
広まって行ったカルルス煎餅が各地の温泉地で
「炭酸せんべい」になっていったのかもしれませんね。

 

なお、「炭酸せんべい」の材料である小麦粉、
砂糖は当時は高級品扱いであったことや、消化に
良いということもあり、日本にいる外国人向けや、
病人や赤ちゃんに用いられたようですよ。

 

スポンサードリンク




凮月堂「ゴーフル」の誕生 Wikipediaの2つの発祥説への疑問 

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

140830hugetudosabure

 

 

ゴーフルはどの「凮月堂」で作られたのか?

凮月堂といえばゴーフルというほど
「ゴーフル」は看板商品ですね。

 

フランス語で「蜂の巣」を意味する「ゴーフル
(Gaifres)」と名づけられたのは、蜂の巣の
ような形がついた鉄板に挟んで焼いたからだそう。

 

それではこのゴーフルは、前回お話しした
いくつかの「凮月堂」の うち、どの「凮月堂」
が作り出したものなのでしょうか?

 

 

 

 

調べてみますと一つの「凮月堂」がつくったもの
ではなく、凮月堂一門で研究、開発し昭和の初期
から発売したお菓子ということのようでした。

 

「凮月堂」はのれん分けをしたお店が、新年に
凮月堂総本店に一堂に会する行事もあり、一門が
協力して「凮月堂」をもりたてていたようですので
ゴーフルもそのように作られたのでしょう。

 

 

hugetudorogo

 

 

 

Wikipediaの「関東説」と「関西説」

ところがWikipediaでは、ゴーフルの誕生に
際しては関東でできたという説と、関西説の
2つがあると併記されています(2016年5月)。

 

確かに現在の凮月堂のサイトを見ますと
そのように思えなくもないのですが。

 

ですがそれぞれの凮月堂のサイト、及び過去にネット
に記載されていた「風月堂社史」を見ますと
Wikipedia で関西説と呼んでいるものも、やはり関東説
の中に含まれ、一つであるようにも思えるのです。

 

 

140830sabure「ミニゴーフル」神戸凮月堂

 

 

 

3つの凮月堂のサイトでの表記

ここで現在の3つの凮月堂のサイトのゴーフルに
関しての記載を簡単にまとめてみましょう。

 

上野凮月堂
(「ゴーフル誕生秘話」)——Wiki.の東京説
カルルス煎餅をもとにゴーフルをつくり
だしたことが、当時の工場長の事細かな
数十枚に及ぶ手記に残されています。

 

そこには昭和の初め頃は、凮月堂一門で
新商品の研究開発をし、昭和4年10月には
ゴーフルが販売されたとの記述が見えます。

 

東京凮月堂(「凮月堂の歴史 沿革」)
昭和2年、1927年 米津凮月堂がゴーフル
を考案、販売を開始。

 

神戸凮月堂
(「ゴーフル物語」)——Wiki.の関西説
大正15年(1926)頃にお客様がフランスから
持ち帰った焼き菓子をもとに研究し、昭和2年、
1927年から発売にこぎつけたと記載されています。

 

 

160503hugetudooguramatya「小倉抹茶ケーキ」東京凮月堂

 

 

 

ゴーフルの誕生秘話(上野凮月堂

上でまとめたものを少々詳しく見てみましょう。
まずは上野凮月堂、そして神戸凮月堂の順。
東京凮月堂に関しては、上述の記載
のみですので省略します。

 

ゴーフルの誕生以前の明治期に、凮月堂一門
では炭酸せんべいの原型ともいう
「カルルス煎餅」を販売していました。

 

カルルス煎餅を焼いていた煎餅担当の人が、
見本用に何十もの煎餅を焼いては届け、焼いては
届けを繰り返しましたが、当時の責任者の
米津恒次郎のOKはなかなか出ません。

 

 


チェコ・ボヘミア西部の都市
カルルスバードの「カルルス煎餅」

 

 

日清製粉と日本製粉の粉の全製品を取り寄せて
次々と焼いた後、色の黒い、麦を主体にしたそば、
うどん用の中力粉で作ってみました。

 

するとそれは口溶けも、歯触りもよいということで合格。
そのおせんべいにクリームを挟んだ
ゴーフルがここに誕生したのです。

 

 

 

ゴーフルの前身「カルルス煎餅」

ゴーフルのもととなったカルルス煎餅
ですが、これを凮月堂で作るように
なった経緯は次のようなものです。

 

 

150924tansansenbeiゴーフルのもととなったカルルス煎餅(炭酸せんべい)

 

 

明治20(1887)年、医科大学学長だった
三宅秀がヨーロッパから持ち帰ったカルルス
煎餅をもとにして、米津松造が試作をしました。

 

カルルス煎餅の試作品を口にした三宅秀は
「ヨーロッパの本物にも劣らぬ程の上出来」
と賞賛したということです。

 

(なお米津松造は、凮月堂の初ののれんわけを
された「米津凮月堂」の店主であり、神戸凮月堂
は米津凮月堂からのれんわけをされたお店。
またゴーフルの誕生に関わった米津恒次郎
は松造の次男です)

 

 

*       1905年 上野凮月堂
*               |
凮月堂総本店———————————1950年代休業
    |
    |(のれんわけ)
  1872年 米津凮月堂 → 東京凮月堂
        |  (経営破綻により)——
        |
 *       | (のれんわけ)
    神戸凮月堂、長野凮月堂、甲府凮月堂—
*    1897年

 

 

 

ゴーフル物語(神戸凮月堂)

この上野凮月堂のカルルス煎餅が出来た話と
ほとんど同じような話が、現在の神戸凮月堂のサイト
に「ゴーフルの物語」として載っています。
要約しますと次のようになります。

 

「大正15年、1926年頃にヨーロッパから持ち
帰ったフランスの焼き菓子を持参したお客様の
『日本でもつくってみてはどうか』という
言葉からゴーフル開発が始まり、発売された
のは昭和2年、1927年」

 

 

140830hugetudo「ミニゴーフル」神戸凮月堂

 

 

 

東京凮月堂と神戸凮月堂は同時期に発売

先ほど記載した上野凮月堂のサイトの「ゴーフル
誕生秘話」でダメ出しをしていた米津恒次郎は、
当時は一門で一緒に開発していたとはいえ
米津凮月堂(後の東京凮月堂)の所属です。

 

試行錯誤してゴーフルを完成させ販売したのは
昭和4年10月と、上野凮月堂のサイトには書いてあり
ますが、一方、東京凮月堂(当時は米津凮月堂)
の方は昭和2年と記載されています。

 

つまり神戸凮月堂と 東京凮月堂(米津凮月堂)
は、同じ時期に発売した、とそれぞれの
サイトに書かれているのです。

 

 

 

 

 

ゴーフルが出来る前後

 

1887(明治20)年
 米津松造がカルルス煎餅を試作

 

1889(明治22)年
 米津松造の二男、恒次郎が留学から帰国
 日本人で初めて本格的フランス料理を修め、
 ウエハース、マシュマロ、サブレ、ワッフル、
 英国式の重厚なフルーツケーキ、カルルス煎餅
 など日本になかったお菓子の最新技術を持ち帰る

 

1927(昭和2)年
 東京凮月堂(米津凮月堂)ゴーフル発売
 神戸凮月堂      〃

 

(上野凮月堂のサイトでは)
1929(昭和4)年   凮月堂一門、ゴーフルを販売

 

 

140830hugetudosabure「ミニゴーフル」神戸凮月堂

 

 

 

_

ゴーフルの発祥地は1つ、2つ?

前回、凮月堂という店名は松平定信から
賜ったということを書きました。

 

これは上野凮月堂、東京凮月堂、神戸凮月堂の
全てのサイトにそれぞれ記載されていることです。

 

それと同じように各サイトが、同じゴーフル誕生の話
を、別の角度から載せているのではないでしょうか?

 

 

 

 

確かにゴーフル誕生直前の1923(大正12)年には
関東大震災があり、凮月堂総本店及び米津凮月堂
(東京凮月堂)は罹災しましたので、神戸凮月堂が
ゴーフルの開発に力を入れられたのかもしれません。

 

ですがそれを秘密にしたので、凮月堂総本店を
はじめとする米津凮月堂(東京凮月堂)、
上野凮月堂の関東勢が力を併せて別にゴーフルを
作り出しとということは少々考えづらい気もします。

 

この凮月堂の、のれんわけ図を見てもおわかりのように
神戸凮月堂は、総本店ののれんわけをした米津凮月堂
から、またのれん分けをしてもらったお店。

 

 

*       1905年 上野凮月堂
*               |
凮月堂総本店————————————1950年代休業
    |
    |(のれんわけ)
 1872年 米津凮月堂 → 東京凮月堂
          |(経営破綻により)—
          |
          |(のれんわけ)
     神戸凮月堂、長野凮月堂、甲府凮月堂—
*     1897年

 

 

関東大震災で総本店と米津凮月堂のお店が倒壊した
災難の後に、自分たちで開発したゴーフルの製法
を秘密にする、などということはあり得ないでしょう。

 

しかも、発売時期が神戸凮月堂と
米津凮月堂(東京凮月堂)が同じで
あることから考えても不自然です。

 

ゴーフルの誕生は一つであるように思えるのですが
皆さんはどのように思われるでしょうか?

 

 

 

 

なお、Wikipedia  にはこのような記載もありました。
「戦前、凮月堂一門は互いに協力して商品の開発や、
製造、販売を行っており、ゴーフルは凮月堂一門に
共有されていたが、戦後ゴーフルの類似品が氾濫
した為、神戸凮月堂が商標を出願した」と。

 

1952(昭和27)年、特許庁に
  「ゴーフルの商標と意匠の登録」を出願

1953(昭和28)年、商標の権利を取得

 

 

140411rosenthalmagicfluteteapot

 

 

 

各凮月堂でのゴーフルの呼び方

上野凮月堂
「ゴーフル(Gaufres)」
 小さいもの「プチゴーフル(Petites  Gaufres)」

 

東京凮月堂
「ゴーフル(Gaiefres)」
 小さいもの「ゴーフレット(Gaufrettes)」

 

神戸凮月堂
「ゴーフル(Gaufres)」
 小さいもの「プティーゴーフル(Petites  Gaufres)」
   〃  「ミニゴーフル(Mini  Gaufres)」

 

 

 

 

 

私と「凮月堂」のゴーフル

と今日は、随分長い記事になってしまってごめんなさい。
ここまで読んで下さった方がいらしたら
ありがとうございます!

 

長くなりついでといっては何ですが
私のゴーフルの思い出をちょっと。

 

大昔の学生時代、合宿で沖縄の
久米島に行ったことがありました。
大学でファゴットを教えていらっしゃる
M田先生一門の合宿でした。

 

 

 

 

中には私のようにM田先生の弟子でもなく
ファゴットもできない数名が紛れ込んでいましたが
M田ファミリーは優しく受け入れてくれました。

 

M田先生はいつものようにお菓子と、奥様が
作られたお料理を持ってきて下さったのですが、
そのお菓子が上野凮月堂のゴーフルだったのです。

 

M田先生は上野、池袋と国立にある大学の教授を
していらしたので上野凮月堂で買われたのでしょうか。
もちろん、奥様が用意されたのかもしれませんが。

 

ですが何故か私には、合宿中もその他の時もそうで
あったように、弟子たちの誰よりも気を遣い動いて
いらしたM田先生が自ら、上野の凮月堂で買われた
ような気がしてならないのです。

 

スポンサードリンク




「上野凮月堂」「東京凮月堂」「神戸凮月堂」

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

160503hugetudooguramatya

 

 

「凮月堂」はいくつある?

前回、ミルフイユを御紹介していて初めて知った
のですが、千疋屋には「千疋屋総本店」「銀座千疋屋」
「京橋千疋屋」と3つの千疋屋があるということでした。

 

そういえば一昨年、「神戸凮月堂」の
ミニゴーフルを御紹介した時にも、複数の
凮月堂があると知って驚いたものでしたが。

 

失礼な話なのですが、その時まで私は
「神戸凮月堂」というお店の名を知らずに
「凮月堂」といえば上野だと思い込んでいたのです。

 

 

140830hugetudoミニゴーフル「神戸凮月堂」

 

 

初代の凮月堂からの流れを汲むお店は
「上野凮月堂」のみだそうですが、その他にも
のれん分けをした凮月堂もあります。

 

なかには全く関係がないのに凮月堂を
名乗るお店もあるそうですが。

 

 

 

「凮月堂総本店」

「凮月堂総本店」の創業は1747年(延享4年)と
いうことですので、今から260年以上も
前のことになります。
時は江戸時代、第9代・徳川家重の治世。

 

後に大住喜右衛門と改名する小倉喜右衛門が、
江戸には上方にあるようなおいしいお菓子が
少ない、江戸で美味しいお菓子作りたい、
との志をもって大坂から江戸にやってきます。

 

その思いをお店の名前に込めたのでしょうか、
宝暦年間に江戸は京橋に開いたお店の名前は
「大坂屋」でした。

 

 

hiroshigekyobashi歌川広重「京橋竹がし」

 

 

 

養女・恂は水野忠邦の生母

「大坂屋」の初代・喜右衛門は子どもに恵まれ
なかったため、姪の恂(じゅん)を養女にします。

 

恂は喜右衛門の家から、唐津藩主水野家に
奉公に上がり当主、水野忠光の側室となり
1794年に男子を出産。

 

その子が後の老中水野忠邦ですが、彼は18歳の
時に、家督を相続し肥後唐津藩主となります。

 

その後、宿下がりとなった母・恂は養父、
喜右衛門の家にもどり婿を迎えて「大坂屋」
のお店をもりたてていきました。

 

 

           2代目・喜右衛門
小倉喜右衛門       |
  |_ _ _ _ _ _ _ _ _ _    恂(養女)
  |          |———水野忠邦
  妻        水野忠光

 

 

 

水野忠邦の縁から松平定信に屋号を賜る

肥後唐津藩主となった水野忠邦は
生母である恂の夫・二代目喜右衛門を
お出入り菓子商人として引き立てます。

 

評判を呼ぶようになった大坂屋は、諸大名家への
出入りも許されるようになっていきました。

 

当時、筆頭老中を引退していた松平定信は
喜右衛門の誠実な人柄を愛で 、

 

「汝の心事の清白なるを愛する。
これをもって屋号とせよ」
と「凮月堂清白」の五文字を賜ります。

 

 

hugetudorogo

 

 

「凮月堂清白」とは、蘇東坡(1036~1101年)の
「後の赤壁の賦」の中にある「月白風清」の語。
その上「凮月」というのは松平定信の
雅号でもあったのです。

 

これを喜んだ水野忠邦は、名書家・市河米庵に
「凮月堂」と、巨大な白布に揮毫させ店頭に掲げる
ようにと伝えたことから、「大坂屋」は「凮月堂」
となり、小倉姓も大住姓に改めました。

 

「凮月堂」の名を与えた松平定信は
1829年に亡くなります。

 

「上野凮月堂」は大恩人である松平定信
の命日には今でも、ゆかりのお菓子
「かぼちゃ菊」をお供えしているそうです。

 

 

all-270x200松平定信の命日に献納する「かぼちゃ菊」
中にあんが入った落雁

 

 

 

五代目の三子により「上野凮月堂」が誕生

「凮月堂総本店」の流れをくむ「上野凮月堂」
は、1905年五代目喜右衛門の三子である
大住省三郎が開きました。

 

(「株式会社 上野凮月堂」
東京都台東区上野1丁目20-10 tel.03-3831-1111
代表取締役社長 大住祐介 )

 

現社長名からもおわかりの通り、大住喜右衛門からの
「凮月堂総本店」の歴史を継承するのは現在では
この「上野凮月堂」のみということ。

 

一方、「凮月堂総本店」は代を重ねるうちに
跡継ぎの夭折が続き九代目・喜右衛門を最後に
11950年代から休業になっています。

 

 

140830hugetudosabureミニゴーフル「神戸凮月堂」

 

 

 

「米津凮月堂」がのれんわけ

1872年(明治6)には当時の番頭であった米津松造が
「凮月堂総本店」からのれんを分けてもらったのが
「米津凮月堂」です。

 

また「凮月堂総本店」の承認のもと「米津凮月堂」
からも、「神戸凮月堂」「長野凮月堂」
「甲府凮月堂」がのれん分けをされています。

 

以前、御紹介したミニゴーフルの「神戸凮月堂」は
「米津凮月堂」からののれん分けだったのですね。

 

 

140830sabureミニゴーフル「神戸凮月堂」

 

 

 

「米津風月堂」→「東京凮月堂」

「米津凮月堂」の米津松造は、二男に西洋料理店を
銀座に出店させましたが、次の代の米津修二で
経営権を失ってしまいます。

 

その銀座のお店の新たな経営者が
現在の「銀座凮月堂」となっています。

 

戦後、米津修二は再び銀座のみゆき通りに
出店するも経営破綻。
これを受け継いだ経営者が
現在の「東京凮月堂」ということです。

 

 

         1905年 上野凮月堂
*         
凮月堂総本店—————————————1950年代休業
    |
  (のれんわけ)
 1872年 米津凮月堂 → 東京凮月堂
      |     (経営破綻により)——
    (のれんわけ)
    神戸凮月堂、長野凮月堂、甲府凮月堂———

 

(「株式会社 東京凮月堂」
東京都中央区日本橋2丁目2-8 tel.03-3542-3281
代表取締役社長 高瀬晃裕

 

「株式会社 神戸凮月堂」
神戸市中央区元町通3丁目3-10 tel.078-321-5555
代表取締役社長 下村治生           )

 

 

160503hugetudooguramatya小倉抹茶ケーキ「東京凮月堂」

 

 

 

恂と2つの家

「凮月堂」のもととなったお店「大坂屋」初代の
養女である恂が水野忠光の側室となり生んだ子が
後の藩主・水野忠邦でした。

 

「上野凮月堂」のサイトには、
自分の子が家督相続をして藩主となったのを
見届けた後に、恂は「当時の習わしとして
宿下がりをした」との記述があります。

 

将軍家ですと、次の代の将軍を生んだ側室は
「御生母様」、「御腹様」として大奥で権勢を
振るうようですが、大名家では、また少し
様子が違うのかもしれませんね。

 

恂さんは、水野家の跡取りを生んだ後に家に帰り
今度は、家業の二代目となるべく婿を迎える
というように、2つの家の存続のために
大活躍をした女性だったようです。

 

スポンサードリンク