「日本を愛し、日本人より日本人らしく生きた青い目の版画家」クリフトン・カーフ

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

 

「赤坂  金龍」とクリフトン・カーフ

諸事情から一度は閉店した赤坂の「料亭金龍」が
日本の伝統文化発信の「赤坂  金龍」として再出発を
するきっかけの一つとなったのは今日、御紹介する
クリフトン・カーフさんの影響だったということです。

 

彼の作品はどのようなものだろうと
検索をしてみて驚きました。

 

かなり前のことですが、彼の作品をカード
(だったか正確には忘れましたが)にした何点かを
友人から頂いたことがあったからです。

 

建物や路地、お茶室の中など、日本の美しい
風景を版画にした作者を、私は当然のように
日本人だと思い込んでいました。

 

その作者が「赤坂  金龍」と御縁のあった
版画家だったとは……。

 

 

 

料亭金龍」は2009年、「赤坂  金龍」として再出発

 

 

 

1955年に再来日

フィンランドに生まれ、後にアメリカに移住した
祖父母を持つクリフトン・カーフ( Clifton  Karhu)は
1927年にアメリカのミネソタ州ダールズで誕生しました。

 

彼が初めて日本を訪れたのは1946年、18歳の時のこと。
最初は、なんと軍人として長崎県の佐世保にいらした
そうですが、軍人といっても任務は、軍隊付きの画家。

 

家族の全てが絵を描くという環境で育った
クリフトン・カーフはその時すでに、日本の文化や
町並みに興味をもち、帰国後の1950年〜1952年
には、ミネアポリス美術学校に通います。

 

 

 

「桂離宮と月」クリフトン・カーフ

 

 

 

京都から金沢に

卒業後、23歳だった1955年に再来日し
最初は滋賀県に、そののち京都に移ります。
初めての個展が大成功を収めたのは1961年、
34歳の時でした。

 

それからは国内はもとより、香港、オーストラリア、
ヨーロッパ、アメリカで個展を次々に開催し、版画集
(「カーフ画集」「京都再見」「京都発見」)を刊行。

 

59歳になった1986年からは、生まれ故郷のアメリカ、
ミネソタ州で、2年後には当時拠点であった京都で
またその2年後には、彼のルーツともいうべき
フィンランドで、それぞれ回顧展を開催しています。

 

 

クリフトン・カーフさんと、愛猫・マイト君

 

 

京都のアトリエ兼住居を1995年、
68歳の時に金沢に移します。

 

九谷焼きの仕事で訪れた際に金沢に魅かれ
何度か通ったのちに購入した家は、内外装とも
金沢の茶屋文化の伝統的な様式に整えました。

 

金沢に移ってからも版画集を刊行し、フィンランド、
スウェーデン、アメリカでの個展を開催していた
クリフトン・カーフは、今から10年前の
2007年3月24日、80歳で永眠。

 

このようにみていきますと、「赤坂  金龍」との
繋がりはどのあたりに位置するのでしょうか?
できることならば、秋葉佳宣さんに
伺ってみたいところです。

 

 

秋葉佳宣さん「赤坂  金龍」
(写真/「『WELCOM港区』vol.630」)

 

 

 

うさぎがお出迎え「カーフこれくしょん」

金沢の浅野川沿いの主計町(かづえまち)にあった
彼の自宅兼アトリエだった茶屋を改装した建物は
現在クリフトン・カーフ作品の展示、販売
をするギャラリーになっています。

 

「 Yanis   Art  japan   ltd.(株式会社
ヤニスアート・ジャパン)」
(代表取締役 香川寿幸
〒920-0908 石川県金沢市主計町3-19
Tel.076-255-3928(代)   Fax.076-255-3926
メールアドレス         info@cw-karhu.jp)

 

金沢に移ってからもカーフは、国内はもとより
香港、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカで
個展を次々に開催し、版画集(「カーフ画集」
「京都再見」「京都発見」)を刊行。

 

会社名についている「ヤニス(Yanis)」とは
フィンランド語で「うさぎ」という意味だそうです。
カーフさんも社長さんも、卯年生まれだからとのこと。

 

 

(写真/「金沢主計町茶屋街『かーふコレクション』 」)

 

 

というわけで、ギャラリーの格子戸には
うさぎさんがいっぱい。

 

写真はギャラリーの内側から見たものですが外は
ボタン雪が降っていて、カーフさんの版画のようですね。

 

 

 

水に映る風景を版画に

クリフトン・カーフは、雨上がりの
茶屋街を好んだといいます。
雨に濡れた道路に映った電線を見ていると
一瞬、版画であるのを忘れてしまうほど。

 

 

クリフトン・カーフが雨上がりの友人宅を書いた版画
(写真/「カーフこれくしょん」)

 

 

奥の蛇の目傘が、道に溜まった雨におぼろげに映り
ちょっと強めの風に煽られた暖簾が翻っている雨上がり。
がっしりとした黒の直線に添えられた
嫋やかな曲線が美しい。

 

数十年前にクリフトン・カーフの作品をプレゼント
してくれた友人に、見せてあげたい版画です。
ちなみにこちらはクリフトン・カーフ
の金沢の友人宅だそう。

 

次の写真は、3年前の赤坂サカスの「ホワイトサカス」
の様子ですが、間に水が入ることにより
風景は不思議な美しさに彩られます。

 

 

並べてごめんなさい、こちらは雨の赤坂サカスの写真

 

 

 

洒脱な筆使いの墨絵

クリフトン・カーフといえば、このような京都や金沢の
町並みや、「桂離宮と月」のような版画が最も有名だと
思われますが実は私は、カーフさんの墨絵が大々好きです。

 

 

クリフトン・カーフの版画「桂離宮と月」

 

 

大胆で生き生きとした自由な筆づかいが
生み出す線を見ていると、楽しくて、嬉しくて。
何もこわいものはないぞ!、という気になっちゃいます。

 

こちらは「二兎を追う者は一兎をも得ず」の
「二兎無兎」のうさぎさん。(逃げられてよかったね)

 

 

クリフトン・カーフの「二兎無兎」
(写真/「カーフこれくしょん」)

 

 

左に書かれているのは
「RUN  AFTER  TWO  RABBITS  AND  YOU’LL
CATCH  NONE」というアルファベットの英文ですが
なんとも絵になっている字(!)。

 

その左には「佳風」とサインがありますが
この「かーふ」のサインは、初期には「夏風」
という文字で書かれていたようです。
夏の風、も「佳風」に劣らず素敵です。

 

小説家のヘンリー・ミラーも、クリフトン・カーフ
のユーモラス墨絵を愛したようですよ。

 

 

 

 

 

鮎を売って生計を立てた頃を思い

クリフトン・カーフさんが、最後の12年間の住まいを
金沢主計町に決めたのは、再来日して岐阜にいらした頃
の郷愁に駆られたことも、理由の一つだったとか。

 

再来日して滋賀に住んでいた頃は、プロ級の
腕前をいかして趣味の釣りで得た鮎を売って
生計を立てていたこともあったのだそう。

 

金沢主計町にたゆたう浅野川を見て
その頃を思い出されたといいます。

 

常に着物を着て仕事をし、愛した金沢
の街を散策するクリフトン・カーフは
金沢の人々からも愛されていました。

 

「かーふコレクション」の香川寿幸さんは
こんな言葉を記しています。

 

「日本を愛し、日本人より
日本人らしく生きた青い目の版画家」。

 

 

「マイト」はフィンランド語で「ミルク」の意味

 

 

カーフさん御自身も、自画像を描くときは
目の色を青く描かれたそうですが、実際は
ブルーグリーンの目をおもちだったそうです。

 

上の写真でカーフさんと一緒に写っている
彼によく似たもはもはのネコちゃんの名前は
「マイト」君といいます。
これはフィンランド語で「ミルク」を意味する言葉。

 

今から10年前の2007年3月24日にカーフさんが
お亡くなりになってから、3年ほどの月日を経た
2010年4月に、マイト君は11歳で死んでいます。
マイト君の目の色は、何色だったのでしょう?

 

スポンサードリンク




ミッフィ(うさこちゃん)の作者 ディック・ブルーナ

「あぷりのお茶会赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

ディック・ブルーナは亡くなってしまったけど

三日前のツイッターのタイムラインを見ている時のこと、
棺に入って眠るミッフィーちゃんの絵が
目に飛び込んできました。

 

嫌な予感がします。
発信していたのはオランダ在住の「Janko Bosch」さん。
絵には次の言葉が添えられていました。

 

「Dick Bruna overleden maar nijntje will live forever!
(ディック ・ ブルーナが亡くなってしまいましたが
ミッフィーは永遠に生き続けます!)」

 

やはり不安は的中してしまいました。
ミッフィー(うさこちゃん)の作者であるオランダ
のグラフィックデザイナー、絵本作家のディック・
ブルーナが、2017年2月16日にオランダ、ユトレヒト
で老衰のために89歳で亡くなったそうです。

 

 

オランダのユトレヒトの信号は「ミッフィーちゃん」

 

 

 

世界中で愛されたうさぎ

ミッフィーのお父さんであるディック・ブルーナ
(Dick  Bruna)は、オランダのユトレヒトで生まれ
89年後に同じ街で亡くなりました。

 

そんなミッフィーちゃんの街の信号は
こんなに可愛い信号です。

 

上の写真は青(緑)信号のミッフィーちゃんですが
もちろん赤信号もミッフィーちゃん。

 

こちらの写真もツイッター「ひるひ」さん
という方からのものです。
ミッフィーちゃんの信号のある
こんな素敵な街で暮らしたいですね。

 

ユトレヒト市で生まれたディック・ブルーナは、60年
にわたる長い制作活動の間に「ミッフィー」シリーズを
はじめとして、120作を越える絵本を刊行しています。

 

 

 

 

ディック・ブルーナの絵本は、世界50カ国以上で
翻訳され、8500万部以上のロングセラーと
文字通り世界中で愛された絵本作者でした。

 

日本では、1964年『ちいさなうさこちゃん』
という題の絵本が出版されて以来、5000万部以上の
絵本が刊行されて「子どもが初めて出会う絵本作家」
として親しまれてきました。

 

我が子だけではなく、全ての子どもを愛し、そして
世界中の子どもたちに愛されたディック・ブルーナ。
その絵の原点には、強い平和への願いがありました。

 

 

 

 

 

冬に湖を泳いで逃げる人

1927年にユトレヒトで生まれたディック・ブルーナは
幼い頃から画集に触れて、油絵を描いている子ども
でしたが、十代の半ばの多感な時期に、第二次
世界大戦を経験することになってしまいます。

 

祖国であるオランダは
ナチス・ドイツに侵攻されました。
戦時下にあったある日のこと、冬の寒さの中
冷たい湖を泳いで逃げるユダヤ人の姿を目撃します。

 

彼は憤りと悲しみを覚えたといいます。
「(この体験が)ぼくの人生を決定づけた
のかもしれません」
とディック・ブルーナは後に語っています。

 

 

 

 

 

父の猛反対の中、画家を志す

1945年、第二次世界大戦終結後、高校を退学して
イギリスとフランスの出版社の研修に出かけます。
出版社を経営する父親の跡を継ぐため
との名目のもとで。

 

しかし、実際は美術館や画廊をまわり、パブロ・
ピカソやアンリ・マティスの自由な作風に影響を
受けて、自らもスケッチに励む日々だったのです。

 

1947年にはオランダに戻り、アーティストに
なることを父親に認めてもらい、アムステルダム
国立美術アカデミーに入学しましたが、
自らの求めているものとの違いから退学。

 

1951年、イレーネとの結婚を機に、父親の経営する
出版社「A.W.ブルーナ&ゾーン」に専属デザイナー
として就職した彼は、これ以降、2000冊を越える
ブックカバーのデザインを手がけることなります。

 

 

 

 

 

1955年、ミッフィーちゃん誕生

1953年、彼の最初の作品である絵本
「de appel(りんごぼうや)」を発表。

 

1955年には、ミッフィーシリーズの
最初の1冊が誕生しました。

 

これはイレーネ夫人との間に恵まれた3人の
子どもの、最初の子にしてあげた
うさぎのお話がもとになっているそうです。

 

 

 

 

日本では「ミッフィー」や「うさこちゃん」と
呼ばれているうさぎのオランダ名は「ナインチェ
(nijntje)」で、これが本の題名。

 

ミッフィーは、オランダでは
「ナインチェ・プラウス」という名前です。

 

その年に、「nijntje(ちいさなうさこちゃん)」
と、「nijntje in de dierentuin(うさこちゃん
とどうぶつえん)」を発表。

 

 

最初の子うさぎ「ナインチェ」

 

 

その時の「うさこちゃん(ナインチェ)」はこんな子です。
今とかなり違っていますが
この子も素朴て可愛いですね。。

 

「ミッフィー(うさこちゃん)」のオランダ名は
「ナインチェ」でしたが、実は、ディック・ブルーナ
という名前も、ブルーナという姓以外は違うそうで、
本名は「ヘンドリック・マフダレヌス・ブルーナ」。

 

「ディック」というのは「太っちょ」という
意味の愛称だそうですが、ブルーナさん、
ちっとも太っていないのに面白いですね。
それとも子どもの頃は、ちょっと太っていたのかな?

 

 

 

 

 

「ブラック・ベア」シリーズ

彼の父の会社であったA.W.ブルーナ&ゾーン社は
老舗の中堅出版社でしたが、第二次世界大戦後は
電車に乗る時にポケットに入るサイズの
ペーパーバックの探偵小説の出版で成功します。

 

それまでの書籍の概念を覆す、ディック・ブルーナ
の描くシンプルで斬新な装丁は人気を博し
年間150冊もの装丁をこなしました。

 

英作家イアン・フレミングの「007」シリーズ
の装丁も彼の作品だそう。

 

同社のキャラクターだった熊に、彼が手を加えた
「ZWARTE BEERTJES」(ブラック・ベア)」は
読書週間用のポスターとして登場し、
1955年には、A.W.ブルーナ&ゾーン社のペーパー
バック「ブラック・ベア」シリーズが生まれました。

 

 

ディック・ブルーナの装丁(写真/「assist on」)

 

 

 

小さな四角形の絵本

1959年には、彼の最初の絵本だった「りんごぼうや」
(1953年)の改訂版が出ることになりましたが
この時に私たちにおなじみの、あの小ぶりの
正方形の絵本スタイルが生まれます。

 

その理由は、この大きさが「子どもの手に取って楽しく
両手におさまるサイズだから」というものですが
まさに納得です、本当に子どものための絵本ですね。

 

また彼の絵本は、全て12場面の構成になっています。
これも幼児が集中できる時間が10分ということから
その時間内に読み切れるページ数ということだそう。

 

 

 

 

1971年に、グラフィックデザイナーのピーター・
ブラッティンガとともに、ディック・ブルーナの
著作物を管理するメルシス社を設立。

 

1975年にA.W.ブルーナ&ゾーン社を退職する
までの20年間、彼は「ブラック・ベア」
シリーズの装丁を続けました。

 

 

 

たった一人でミッフィーちゃんを描き続ける

出版社を辞めて独立した後も、ディック・ブルーナ
は、アシスタントを雇わずに、構想から仕上げまで
たった一人で仕事場で描き続けます。

 

ミッフィーちゃんの絵をよく見ると
黒の輪郭線がちょっとデコボコしていますが
その理由を彼はこう答えています。

 

 

輪郭がちょっとデコボコしているミッフィーちゃん
(写真/「ディック・ブルーナ みみよりフログ」)

 

 

「私の線は、いつも少し震えています。
まるで心臓の鼓動のようでしょう?
震える線は私の個性なのです」と。

 

 

 

2015年 ミッフィー誕生60周年

それからもディック・ブルーナの活躍は
目覚ましく、数々の賞を獲得してゆきました。

 

1983年「オレンジナッソー勲章」
1990年「くまのぽりす」でオランダ書籍宣伝協会
    から「金の絵筆賞」
1993年 オランダのベオトリクス女王からナイト
   (騎士)の称号を受ける
1996年「うさこちゃんのてんと」でオランダ書籍
    宣伝協会から「銀の絵筆賞」受賞

等々ですが、書ききれませんのでこのくらいにしましょう。

 

 

 

 

2006年には、ディック・ブルーナの作品を専門に
展示する美術館「ディック・ブルーナ・ハウス」
(現在は「ミッフィー・ミュージアム」)もオープン。

 

2007年には、次世代に英知をもたらす「Wisdom」
Projectで「世界の70人」に選ばれています。

 

また2013年には、初めての映画「劇場版ミッフィー
どうぶつえんで宝さがし」が公開され、2015年には
ミッフィー誕生60周年を記念する展覧会が
世界各地で開催されました。

 

 

 

 

 

2011年 涙を流すミッフィーちゃん

そして私たち日本人には、決して忘れる
ことのできないことがあります。

 

2011年の東日本大震災の時に、ディック・ブルーナ
が描き起こしてくれたミッフィーちゃんです。

 

当時、唯一このアートの使用を許可されていた会社に
所属していたグラフィックデザイナーのいちかわ
照葉さんは、このアートに添えられていた
ディック・ブルーナの言葉を記してくれています。

 

 

 

 

「このアートのライセンス料(使用料)
は一切いただきません。
これを自由に使って、日本の復興に
役立ててください。」(「日々色々」)

 

私は当時、そのようなディック・ブルーナの言葉は
全く知りませんでしたが、涙を流しているミッフィー
ちゃんを見て、私も涙が溢れたことを思い出します。

 

 

 

 

 

正面を向くミッフィーちゃん

そういえばミッフィーちゃんって、いつも正面を向いて
いますが、これは読者といつも対話していたいという
思いから、登場人物は全て正面を向き、読者と目を
合わせるように設定されているためだそう。

 

「飢餓、貧困、病気から子どもたちを守ろうと訴える
ポスターも描き、東日本大震災では涙を流すうさこ
ちゃんのイラストで日本の子どもたちを励ました。
生涯にかいた絵本の、どの主人公も
まっすぐに読み手である子どもたちを見つめている。
子どもたちを怖がらせるストーリーは一昨もない」
                 (森本俊司)

 

 

 

 

また、ミッフィーちゃんの絵に多い余白について
ディック・ブルーナはこう説明しています。
「多くの余白を子どもたちの
想像力のために残しておいた」と。

 

ミッフィーちゃんの絵の余白を読み取った後に
自分の心の余白にそれを描き込む作業は
私たちに残された仕事なのかもしれませんね。

 

ディック・ブルーナさん、
長い間、本当にありがとうございました!  (・×・)

 

スポンサードリンク




イタリア大使館と、ローマで行われている日本人への式典を知っていますか?

「あぷりのお茶会赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

イタリア大使館庭園(写真/「イタリア大使館」)

 

 

 

「綱坂」の向こうはイタリア大使館

広大な8千坪もの敷地の中に英国人建築家
ジョサイア・コンドルの最高傑作といわれる
美しい建物がある「綱町三井倶楽部(C)」。
その隣に位置しているのがイタリア大使館( E)です。

 

水色の矢印がある「二の橋」から、三田通りに至る
までのかなり長い距離の中に、A、B、C、D、Eと
わずか数件しかありません。

 

というのは、一つの敷地の大きさが他と比べますと
かなり大きく、広大な面積を有しているからです。

 

もちろん今日、御紹介のイタリア大使館も同様です。
(「イタリア大使館」 〒108-8302
 港区三田2丁目5-4
 Tel.0081334535291 / 0081334535292)

 

 

水色の矢印)「二の橋」 (ピンク色の線)「日向坂
紺色の線)「綱の手引き坂」 (緑色の線)「綱坂」 
B )「オーストラリア大使館」 ( C )「綱町三井倶楽部
E )「イタリア大使館

 

 

 

松山藩中屋敷  →  松方正義  →  イタリア大使館

「オーストラリア大使館」と「綱町三井倶楽部」、
「イタリア大使館」の3つは、全て
江戸時代は大名家の江戸藩邸でした。

 

(B)の「オーストラリア大使館」は
日向佐土原藩の島津家のお屋敷。

 

(C)の「綱町三井倶楽部」は
やはり同じ日向佐土原藩、島津家の屋敷の一部と、
会津藩松平(保科)肥後守のお屋敷の一部と思われます。

 

そして今日の(E)「イタリア大使館」ですが
こちらは伊予国松山藩、15万石、
松平隠岐守の中屋敷があった場所です。

 

明治維新後には、国立西洋美術館の
「松方コレクション」として有名な松方幸次郎の父
・松方正義の手に渡っていたこの土地を
イタリア政府が1934(昭和9)に取得しました。

 

 

このあたりは大名屋敷の多い一角です

 

 

 

伊予松山藩 松平隠岐守

上の地図でも「松平姓」がたくさんありますが
以前このブログでそれを取りあげたことがあります。
「江戸切絵図に『松平家』が多いのはなぜ?」

 

松平を名乗っている家は、大きく分けて3つ。
① 徳川を名乗らない家康の子孫の松平姓
② 家康が将軍になる前からの親類の松平姓
      (十八松平、十四松平とも)
③ 報賞、名誉として与えられた松平姓

 

現在、イタリア大使館ある場所に江戸時代、お屋敷を
構えていたのは、①の徳川家康の子孫の松平家という
ことで家康の異父弟・定勝の子孫の「久松松平家」です。

 

 

 伊予松山藩・松平隠岐守の中屋敷だったイタリア大使館

 

 

 

4代藩主・定直は俳句好き

伊予松山藩は、現在の愛媛県松山市を
中心とした地域をおさめていた藩。

 

残念ながら私は松山には行ったことは
ありませんが、松山といって思い浮かぶ
のは、なんといっても俳句ですね。

 

正岡子規や高浜虚子が、現代俳句で名を残したのも、
久松松平家と全く無関係というわけでもないようです。
というのは、第4代・定直(1660〜1720年)が
徘徊を好んだ藩主だったからです。

 

定直の死後の安永年間(1772〜1781年)に
俳句は一般の庶民にまで普及してゆき
領内では徘徊が盛んになったといいます。
また正岡子規も高浜虚子も、藩士の子弟です。

 

 

イタリア大使館 緑の向こう側に池があるのでしょうか?

 

 

 

赤穂義士を預かった4人の藩主

イタリア大使館といって一番有名なのは
もしかしたら忠臣蔵かもしれませんね。

 

忠臣蔵・元禄赤穂事件が起こった際に、義士のうちの
10人を屋敷に預かり、後に切腹をさせた場所の一つ。

 

1703(元禄15)年、12月15日に吉良邸討ち入りを
果たした赤穂義士は、4つのお屋敷に分けて
預けられることになりましたが、そのうちの
一つがこの松山藩・松平家です。

 

その他は以前、御紹介した現在は六本木ヒルズに
なっている長府藩・毛利家と熊本藩・細川家、
もう一つはやはり同じ三田にある岡崎藩・水野家です。

 

 

E  )の文字の下に見えるのが、イタリア大使館の池

 

 

 

伊予松山藩 第4代藩主・松平定直

伊予松山藩の中屋敷に預けられた赤穂義士の面々とは
大石内蔵助の長男である大石主税良金、堀部安兵衛武庸、
中村勘助正辰、菅谷半之丞政利、木村岡右衛門貞行、
千馬三郎兵衛光忠、岡野金右衛門包秀、大高源吾忠雄、
貝賀弥左衛門友信、不破数右衛門正種の十名。

 

最も当時、第4代藩主の定直は病に伏していて、登城
できなかったため、赤穂義士預かりの命令は、家臣を
通じて聞いたといい、定直が赤穂義士たちと面会を
したのは元禄16年の1月5日になってからのことでした。

 

定直は会見が遅くなったことを詫び、仇討への
賞賛をした後に、このように語ったといいます。

 

「もっと大歓迎をしたいところだが、
幕府からのお預かり人であるためできない。
しかし諸事不自由はさせない。
用事があれば遠慮なく家臣に申しつけてくれて構わない」と。

 

 

イタリア大使館の庭園にある池

 

 

 

毎年、赤穂義士の供養を行うイタリア大使館

イタリア大使館には、大きない池を有した美しい庭園が
あることでも有名ですが、先ほどの地図で( E  )の
文字の下に、水色で描かれていたのが庭園の池です。

 

この池は、赤穂義士の切腹の場の一部を掘り
起こしたものともいわれ、池の裏手にある築山は
池を掘り起こした時の土でできているそうです。

 

そばには当時のイタリア大使により
1939(昭和14)年、記念碑も建立。

 

記念碑はイタリア語と日本語の両方が刻まれているよう
で、日本語は徳富蘇峰が揮毫したと伝えられています。

 

そして一般には公開されていませんし、日本人もあまり
知らないことだと思うのですが、イタリア大使館では
赤穂義士の命日に、歴代のイタリア大使の手により
義士たちへの供養が行われています。

 

 

 

毎年、8月6日にパンテオン前で行われる原爆の日の式典
(写真/「藤村シシン1/7映画ミューズアカデミー」」)

 

 

 

ローマで毎年、広島・長崎への式典も

そしてこちらは、もっと知られていないように思える
のですが、実はイタリアでは毎年、8月6日の朝から
ローマのパンテオン前で、誰でも参加できる
原爆記念日の式典を行なっているそうです。

 

横断幕に書かれているのは
「Mai più HIROSHIMA」(広島を二度と繰り返すな)
という言葉。

 

この時期、ローマに沢山の日本人環境客が来ているにも
かかわらず、この式典は知られていないようで
参加してくれないことを残念がっているとか。

 

そうだったのですね……、日本人として、心から感謝を!
私もその時期にイタリアに行ってみたいなぁ。
(「藤村シシン1/7映画ミューズアカデミー」
さんのツイート, 写真も)

 

 

チェルノブイリにある福島への祈りを込めた「折り鶴の像」

 

 

 

チェルノブイリにある「折り鶴の像」

そういえば今年の初めに、チェルノブイリにある
「折り鶴の像」を御紹介したのを思い出しました。
「フクシマへの祈り「折り鶴の像」」

 

1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原発事故
から、ちょうど25周年目にあたる
2011年に起きた福島原発事故。

 

同じ苦しみを受けた福島の人たちへの
思いを込めて建てられた像です。

 

ウクライナ政府の資金提供により、ウクライナ人
デザイナーの設計で作られたものですが、このような
像はフクシマに対してだけではなく、ヒロシマへの
同様の折り鶴の像が建てられているということです。

 

 

チェルノブイリの「折り鶴の像」のそばには
「Fukusima」の文字が

 

 

 

知らないところで……、ありがとう!

2016年の初めと終わりにはからずも私たち、と
いってはいけないのかもしれませんが、少なくとも私は
知らなかった、外国から日本に対してのあたたかい
思いを記すことができたことをとても嬉しく思います。

 

血の繋がりや国境を越え、人々が心を砕いて
くださっていることを決して忘れることなく
今度は私たちができることをしてさしあげたい。

 

2016年、ありがとう!
そして、ブログを訪れてくださった
皆様へ、ありがとうございます!

 

 

 

スポンサードリンク