絵てぬぐい「麻の葉」さくら小紋のてぬぐい

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絵てぬぐい「麻の葉」

寒い冬にはかたく閉じていたオークの葉っぱも
あたたかい陽気に誘われて少しずつほどけてきました。
でも今日はオークではなくてバック
に見える手ぬぐいのお話です。

 

麻布十番の「麻の葉」はオリジナル絵てぬぐいのお店。
とても麻布の地に馴染んでいるお店ではありますが、
「麻の葉」が麻布十番にできたのはそう古いわけ
ではなく、2010年のことだとか。

 

(麻布十番「麻の葉」
〒106-0045 東京都港区麻布十番1丁目5-241F
03-3405-7511
日〜木 10:30〜19:00  金・土 10:30〜20:00)

 

1985年(昭和59年)にできた株式会社
アート蒼(ART  蒼  SOU)が、本社を麻布十番に
移転した時に、直営店「麻の葉」をオープン
したもので、昨年5周年を迎えたばかりです。

 

 

asanoha絵てぬぐいのお店「麻の葉」麻布十番
(写真/「麻の葉」)

 

 

 

「和と洋」、「新と旧」の絶妙なバランス

とはいえ「麻の葉」は、本当に麻
布十番にふさわしいお店ですね。

 

麻布十番は一応、お洒落な街といわれて
いますが(!)、いわゆる最先端の近代的な
超高層のビルが建ち並ぶ街ではありません。

 

戦前からそのまま、あまり変わらずに営業して
いるのでは?、というようなお店も麻布十番の
街に、浮くことなく溶け込んでいたりもして。

 

下町の雰囲気を持ちながらも、日本橋や浅草、
谷根千(やねせん、谷中・根津・千駄木)
ともまた趣が違った街です。

 

典型的な下町というわけでもなく、ヨーロッパ
かと見紛うようなモダンな町並みでもない
麻布十番は、「和と洋」、「新と旧」が巧まずして
絶妙なバランスで作り出した街という気もします。

 

お友達と一緒に歩いていて、
「この雰囲気、いいでしょう?」などとまるで
自分の所有物であるかのように自慢してしまう
こともあるのですが、麻布十番は、私にとっては
「小洒落た下町」なのかもしれません。

 

 

これは手ぬぐいではなく、私の作品(?)

 

 

 

店名は「麻の葉文様」から

そんな小洒落た下町にふさわしい
「麻の葉」は、「絵てぬぐい」という
呼び方を日本で初めて使ったお店です。

 

30人以上の原画作家の手による300種類
以上の絵柄は歌舞伎の名場面、日本の
四季折々の風景、動物たち、伝統の小紋等、
多岐にわたります。

 

株式会社アート蒼を起こし、
「麻の葉」の店長でもある
須崎和子さんは麻布十番で生まれた方。

 

店名の「麻の葉」について須崎さんは
「丈夫でスクスクと真っすぐに育つ
として江戸時代に好まれた日本独自
の文様、『麻の葉』から採りました」
と麻布十番商店街のサイトで説明を
されています。

 

私も大好きな「麻の葉」文様ですが
もちろん麻布十番の「麻」という
意味も込められているのでしょう。

 

 

160410etenugui麻布十番「麻の葉」の絵てぬぐい
「さくら小紋」

 

 

 

木綿は絹よりも高価だった!

中学か高校の時だったか忘れてしまったので
すが、綿が日本に入って来たのは、麻や絹より
も遅かったと知って驚いたことがあります。

 

現代の私から考えますと、特別なものを除けば
布の貴重度は「絹  →  麻  →  綿」という順序で、
綿が最も庶民的なものであり、日本に古くから
あったのではないかと思っていたからです。

 

織物の発祥は奈良時代といわれており
当時は当然のことながらかなりの貴重品。

 

それは平安時代になっても変わらず、養老律令
が施行されてからは麻は庶民が、絹は高貴な
宮人が使うものとされていたとか。

 

 

160410mattyarate麻布十番「麻の葉」の絵てぬぐい さくら小紋
グラデーションのさくら小紋もあります

 

 

 

手ぬぐいという言葉が誕生したのは江戸時代

その後、綿が中国大陸などから入ってきた
ようですが、絹よりも高価だったために
一般的ではありませんでした。

 

それでも鎌倉時代になりますと少しずつ
広まってゆき、室町時代には湯浴み後に
綿の布で体を拭くようになりました。

 

綿花の栽培が江戸時代から盛んになった
ことから、ようやく木綿の織物は庶民の
生活必需品になり、「手拭い」という
言葉が生まれたのです。

 

 

 

ギャラリーではイベントも

歌舞伎座や大坂松竹座、九州博多座との
関係もある「麻の葉」の絵てぬぐいには
歌舞伎の演目を写したものや衣装の模様、
くまどりなどの歌舞伎関連の模様も
たくさんあります。

 

ですが歌舞伎だけではなく、この絵てぬぐい
(「鬼瓦(おにがわら)」)のように
狂言の演目から題材をとったものも。

 

 

onigawara絵てぬぐい「鬼瓦」(写真/「麻の葉」)

 

 

訴訟の為に3年間家を空けていた大名が
建物の鬼瓦を見て妻を思い出し懐かしく
なるという、ちょっと妻から言うと
どうなのよといいたくなる話ですが
そこはそれ、さすが狂言のおもしろさです。

 

一方、ネコをはじめペンギンなどの可愛い
イラスト風のてぬぐいもあるというように
こちらも「和と洋」、「新と旧」のおもしろさ。

 

「麻の葉」で扱っている商品は絵てぬぐい
だけではなく、お扇子や風呂敷、巾着など
など楽しいものがいっぱいで、お店に入っ
たら長時間、帰るのを忘れてしまうこと
請け合い(私の実体験です)。

 

またギャラリーでは興味深いイベントが
開催されていますが、私は少し前の
「神戸・箸屋の日々の箸」を見逃して
しまったのがかなり心残りです。

 

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喜多六平太

2016年2月21日に喜多流宗家の喜多六平太氏
がお亡くなりになりました。

 

「喜多六平太氏が死去
   能楽シテ方喜多流十六世宗家
2016年2月25日 22:46 日本経済新聞
喜多 六平太氏(きた・ろっぺいた=能楽
シテ方喜多流十六世宗家)21日、脳梗塞の
ため死去、91歳。
お別れの会は3月26日午前11時から東京都
品川区上大崎4の6の9の十四世喜多六平太
記念能楽堂。
1987年に十六世六平太を襲名。
同年から91年まで能楽協会理事長を務めた」

 

1924年12月6日
1928年、仕舞「猩々」で初舞台
「禅師曽我」で初シテをつとめる
1986年に十六世宗家となり
1987年に喜多六平太を襲名
2016年2月21日 死去

 

 

喜多 六平太は、能楽シテ方
喜多流宗家の当主が用いた名。
以下の3人が、当主として六平太の名を名乗る。
中でも明治〜昭和期に活躍した
名人・14世喜多六平太が名高い。
喜多流は、江戸時代(徳川秀忠)に金剛流から
分かれた新しい流儀で、明治期に他のシテ方
と共に「五流」の一つとなったとのこと。

 

12世喜多六平太(能静)
11世七大夫長景の子。
幕末〜維新期の大夫。

 

14世喜多六平太(能心)
12世の三女の子。
明治〜昭和期にかけ、喜多流の再興に尽力。

 

16世喜多六平太(長世)
15世実の長男。当代。

 

 

「六平太」の名は、ポルトガル語で巾着
(堤物)を指す言葉とされる「ロッペイタ」
に由来しているとされます。
『喜多流秘事書』によれば、喜多流初代
・北七大夫は幼少期、豊臣秀吉に腰巾着の
ように常に近侍して寵愛を受け、そのため
秀吉より南蛮製の巾着の名である「ロッペ
イタ」の名を授かり、幼名として「六平太」
を名乗ったのだということです。
野々村戒三によればポルトガル語の「進物、
賄賂」という言葉がこの発音に近いといい、
そこから献上品であった堤物が「ロッペイタ」
の名で呼ばれていたのではないかとも推測
されています。
また後述の14世六平太によると、この巾着と
いわれるものが喜多家には伝わっており、
革製のものであったといいます。

 

 

 

「喜多六平太記念能楽堂」(東京・目黒)

 

 

 

「伝統文化・名流の記事より
    東京新聞 2002年12月28日

「和泉宗家に限らず、能楽宗家のご難が
続いている。
数年前だが、シテ方喜多流の喜多六平太宗家
が財団を私的に使ったとして理事長の座を
追われ、喜多流職分会自主公演の能会となり、
宗家は弟子たちから離反され、対立はいまも
深まる一方だ」

 

 

 

「能面や装束は分割可
  能楽喜多流相続で最高裁判決
      産経Web 2006年6月1日

能楽シテ方五流の一つ『喜多流』十五世
宗家の故喜多実氏の遺産相続人2人の間で、
江戸時代から引き継がれてきた実氏の能面
や能装束の分け方が争われた訴訟の上告審
判決が1日、最高裁第1小法廷であった。

判決によると、実氏は昭和53年8月、能面
と能装束一切を六平太氏と節世(さだよ)
氏にいっしょに相続させ、持ち分は2分の1
ずつと遺言。
実氏死後の平成10年6月、節世氏が六平太氏
側が管理する能面などの分割を求めて東京
簡裁に調停を申し立て、六平太氏が節世氏
の持ち分を買い取る方法などが検討された
ものの、不調に終わった。
節世氏が14年9月に提訴し、節世氏の死後
は持ち分を相続した真王氏が訴訟を続けた」

 

 

 

お能「木賊」のみに用いられる装束
「おもちゃ尽掛素襖」
(写真/「粟谷明生の能がたり」)

 

 

 

「能面や衣装(能・狂言では装束と呼びます
が)は、だいだい宗家に受け継がれて長く使
われ続けるものなので、こういう相続問題で
揉めないように、『財団』などを作って、
私財扱いにしない工夫をしている家が多い
ようですが、喜多流の場合は、先代の家元が
二人の息子に相続させた→宗家となった長男
が問題を起こした→事実上、宗家としての
権限を失って、興行ができない状態になった
……ということで、ゴタゴタしてしまったの
ではという感じですね。

作家・秦恒平氏(マンガ家・秦建日子氏の父上)
が、2000年5月27日の「日記」としてネット上
に公開している記録には、
『家元喜多長世(=十六世宗家・現六平太)は
逼塞し弟節世は病んでいる』とあります。

先代家元の次男・節世氏の養子は、能楽師では
ないようですが(今年5月?に、昭和女子大の
人間文化学部 日本語日本文学科で『能に親し
む』という特殊研究講座の講師を務めてらっし
ゃったみたいですね)、実質的に喜多流の興行
を仕切っている「喜多流職分会」とどういう
関係にあるのかも、報道されている情報では
見えません。

でもなあ……価値のある面(おもて)や装束
(しょうぞく)は、きちんと舞台の上で活かし
もらいたいと思うので、バラバラに競売にかけ
てお金に換える……なんてことはしていただき
たくないですねぇ。

 

 

 

粟谷能の会 粟谷菊生『私の師』

「私は初め父に習い、通いの内弟子と
して喜多実先生に師事しました。
後に(十四世)六平太学校に入りますが、
実先生は、『一所懸命弟子をこしらえ
あげると、オヤジが持っていってしまう』
と嘆いておられたものです。
六平太学校の一番の先輩は故友枝喜久夫先輩、
若いほうでは孫の喜多長世(現六平太)さん、
故節世さん、そして私は先生のお稽古に
間に合った最後の弟子といえましょう。
兄も私も、友枝喜久夫先輩には謡をずいぶん
教わりました。友枝さんと兄との仲は、
他人には計りしれないものがありました。

           『二条河原落書』」

 

 

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フクシマへの祈り「折り鶴の像」チェルノブイリ マカロン「ダロワイヨ」

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紅白マカロン

ダロワイヨ(Dalloyau)のマカロン。
左の赤い方は「とちおとめ」、右は「キャラメル」
だったかな?、ちょっと忘れてしまいました、
ごめんなさい。

 

フランスのダロワイヨは1802年の創業
といいますので長い歴史をもった老舗です。

 

ですが実際のところはもっと古く
1682年のヴェルサイユ宮殿にまで遡るとか。
太陽王と呼ばれたルイ14世の時代です。

 

 

ruijuyonseisankakubousiルイ14世

 

 

シャルル・ダロワイヨがベルサイユ宮殿
の王様のパン職人に選ばれたことから
その輝かしい歴史が始まりました。

 

 

 

バルザックもお気に入り

19世紀フランスを代表する作家、オノレ・ド・
バルザックも、ダロワイヨのマカロンは最高、
と称えた一人だそうです。

 

ダロワイヨの日本進出は1982年の昭和57年。
株式会社不二家とダロワイヨ社が
ライセンス契約を締結し、ダロワイヨジャポン
が設立したのが1989年、平成元年でした。

 

現在、日本には19店舗もの
ダロワイヨのお店があります。

 

 

20100315_1123597_tルイ14世の妃、マリー・テレーズ・ドートリッシュ
(ベラスケス)

 

 

 

紅白の折り鶴

「とちおとめ」と「キャラメル」の2つの
マカロンを紅白のマカロンという、ちょっと
無理矢理感が漂うまとめ方をしてしまいましたが
こちらは正真正銘の紅白の折り鶴です。

 

 

orizuruチェルノブイリにある「折り鶴の像」

 

 

確かに折り鶴ではあるのですが、足もついていますし
何となく雰囲気が違うような気もしますね。

 

それもそのはず、これはウクライナ、チェルノブイリ
にある福島に対する「折り鶴の像」なのです。
福島への「祈りと想い」を込めて
2011年に建てられました。

 

 

fukushimaチェルノブイリの「折り鶴の像」
のそばには「Fukusima」

 

 

 

チェルノブイリ原発事故25年目

チェルノブイリ原発事故は、1986年4月26日
の1時23分に起きました。

 

その25周年目にあたるのが2011年4月26日。
そして、折しもその直前に起きた福島原発事故。

 

同じ原発事故という苦しみを受けた人々への祈りを
込めてチェルノブイリに折り鶴の像が立てられました。
それだけではなく、広島に対する
折り鶴の像も建てられているそうです。

 

折り鶴の像はウクライナ人デザイナーの
設計に基づき、ウクライナ政府が資金を
提供して作られました。(「Peachy」)

 

この「折り鶴の像」の存在を
多くの日本人は知らないということです。

 

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