忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」はフィクション 「南部坂」赤坂の坂10

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151212nanbuzakaue

 

 

有名ですがフィクションです

前回の赤坂の坂は、忠臣蔵・元禄赤穂事件で
お馴染みの瑶泉院の実家の上屋敷のそばの「新坂」
を御紹介しました。

 

赤坂で瑶泉院に因む坂で一番有名な坂は
今日、御紹介する「南部坂」でしょう。

 

ドラマや映画では元禄14年の討ち入りの前日に
大石内蔵助が瑶泉院を訪れた「南部坂雪の別れ」
というシーンがあるそうです。

 

 

151209nanbuzakahyousiki 南部坂の標識

 

 

内蔵助は瑶泉院に会ったものの、廊下で吉良方の
スパイと思しき女中が聞き耳を立てているのがわかり、
討ち入りの話を伝えるどころか、討ち入りの意志など
ないと瑶泉院に告げるという切ない場面だとか。

 

ですが、これはフィクションです。
実際は討ち入り前年の11月に、内蔵助は預かって
いた拝領金を、「大事」のために使う許可を
瑶泉院から得るために訪れています。

 

その時に瑶泉院は、内蔵助に
茶縮緬の丸頭巾を渡しました。
内蔵助はその頭巾を討ち入りに持っていきます。
「最後の面会」

 

 

151212nanbuzakaここから「南部坂」が始まります

 

 

 

2つの「南部坂」

「南部坂」という名前の坂は、赤坂と麻布の
2つありますが、「南部坂雪の別れ」の
舞台は勿論、赤坂の方。

 

次の地図でいいますと下の右の当たり
首都高速道路の六本木二丁目の信号付近から
赤坂駅の方に向かっているピンク色の部分が
「南部坂」です。

 

 

nanbuzakaakasaka下の右寄りのピンク色が「南部坂
(地図/Mapionに加筆)

 

 

陸奥盛岡藩南部家のお屋敷がそばにあった
ため、「南部坂」と名づけられました。

 

現在の住所では、赤坂2丁目と六本木2丁目の境目に
ある坂で、首都高を渡ると、ANAインターコンチ
ネンタルホテルや、サントリーホールのある
アークヒルズがすぐそばにあります。

 

 

151212nanbuzaka

 

 

上の写真の右端の真ん中当たりに見えるのは
「南部坂」の石の標識。
アップしたものがこちらです。

 

 

151209nanbuzakasekihi石でできた「南部坂」の標識

 

 

これまで、いくつも赤坂の坂を見てきましたが
石でできた標識は初めて見ました。

これも忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」人気ゆえ
なのでしょうか?

 

この石の標識には「昭和四十五年十一月八日」
「永冨太道建立」と書かれているようです。

 

 

 

浅野家は 笠間藩  →  赤穂藩

南部家が麻布に移転する前、その地には
瑶泉院の夫の家である、播州赤穂藩の
浅野家の下屋敷がありました。

 

もっとも忠臣蔵・元禄赤穂事件で有名な
浅野内匠頭の浅野家が播州赤穂藩になったのは
南部家が麻布に来るほぼ十年前のこと。

 

それ以前は日立笠間藩でしたが、正保2(1645)年
に、赤穂に領地替え(転封)になっていました。

 

ちなみに麻布の浅野家の下屋敷のあった場所は
現在は有栖川宮記念公園(ありすがわみや
きねんこうえん 港区南麻布5-7)。

 

 

151212nanbuzakaue「南部坂」の上から 正面はアークヒルズの森ビル

 

 

 

浅野家と南部家のお屋敷を交換(相対替)

というわけで明暦2(1656)年2月に
赤穂藩と南部藩が、それぞれの下屋敷を
交換することになりました。
この等価交換を「相対替」というそうです。

 

明暦2(1656)年
陸奥盛岡藩南部家  赤坂 → 麻布
播州赤穂藩浅野家  麻布 → 赤坂

 

赤坂から麻布へ移った南部家のそばの坂も
また「南部坂」と呼ばれるようになったために
二つの「南部坂」が生まれたのです。

 

 

nanbuzaka2上の右にある 南部家→浅野家 ピンク色が赤坂の「南部坂」
下の左にある 浅野家→南部家 ピンク色が麻布の「南部坂」

 

 

なお1701(元禄14)年の、元禄事件で浅野内匠頭は
切腹を命じられ、赤穂浅野家は断絶しましたので
お屋敷もなくなっています。

 

しばらくは空き地だったようですが、後に5千石の旗本
柴田家のお屋敷となり、明治まであったということです。
(「江戸坂見聞録」松本崇男)

 

 

 

明治期には「難歩坂」とも

赤坂の方の「南部坂」は明治の一時期には
坂が急で歩くのが大変、という意味で
「難歩坂」ともいったそうです。

 

ちなみに現在は、「南部坂」の坂上の西側は
アメリカ大使館宿舎になっていますが、今
もしこの坂に名前をつけるとしたら、さしずめ
「アメリカ坂」とでも命名するのでしょうか。

 

アメリカ大使館宿舎は「南部坂」に隣接して
いますが、南部家のお屋敷はここから
少し離れた場所にあったようです。

 

 

151209nanbuzaka 前の写真と同じ場所を夜に撮ったもの

 

 

「南部坂」と南部家の屋敷が離れていたことは
ともかく、私には少々気になることがあります。

 

フィクションなのですから他の坂にすることも
できたのに、「南部坂雪の別れ」の舞台を
なぜ「南部坂」にしたのかということ。

 

長くなりましたので、それについては
次回お話ししましょうね。

 

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「新坂」カナダ大使館から瑶泉院の実家まで 赤坂の坂9

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150924sinzaka

 

 

新しくできたから「新坂」なのですが…

これまで「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」では
8つの赤坂の坂を御紹介してきました。

 

次の地図では、右上の方に赤坂見附駅があり
そこから左下に向かってある道が青山通りです。

 

 

sinzaka

 

 

この青山通りから南(地図ですと下)に向かう
3つの坂は既に御紹介した坂です。

 

Aは「牛鳴坂」Bは「弾正坂」
そしてCが「薬研坂」でした。

 

今日、御紹介するDの「新坂」は、右側の3つの坂と
違い、直接に青山通りとは接してはいません。

 

青山通りに面しているカナダ大使館の
西側の道を行きますと、カナダ大使館の
敷地の途中から「新坂」が始まります。

 

 

 

始まりはカナダ大使館の隣り

この写真で左に写っているのはカナダ大使館です。
ここから緩やかな下り坂になります。

 

 

150924sinzaka

 

 

写真を撮った日は生憎の雨だったのですが
こうして見ますと、「新坂」に雨は似合う
ような気もしないではありませんね。

 

写真の左側、カナダ大使館のある方が
赤坂7丁目で、右側は8丁目です。

 

 

150924sinzakayurai

 

 

 

カナダから江戸へ?

さてこの「新坂」、今まで御紹介した坂の命名とは
ちょっと異なり、名前に「新」とついていますが
では一体、いつできたのかといいますと、

 

これがなんと、元禄12(1699)年。
300年以上も前の江戸時代のことなのです。

 

「なんだ、ちっとも『新』じゃないじゃない」と
お思いでしょうが、できた当時はそれがいつであれ
「新」ですものね、当たり前ですが。
と変に納得してしまった「新坂」ではありました。

 

なお、標識にも書いてありますが、「新坂」は
「しんざか」あるいは「しんさか」ともいうようです。

 

 

151027sinzaka

 

 

 

終点は瑶泉院の実家の上屋敷があった場所

上の写真は「新坂」を下ってきた場所
ですが、この辺りで坂は終わります。

 

ここから「新坂」とは直角に、写真でいいますと
手前側の左右に道が延びています。

 

このあたりは、いわゆる忠臣蔵といわれる
元禄赤穂事件で有名な、浅野内匠頭の妻
であった瑶泉院の実家があった場所。

 

瑶泉院の父親・長治は、浅野本家の長晟(ながあきら)
の長子でしたが、母親が正室ではなかったため
弟の光晟が本家を継ぎ、長治は備後・三次(みよし)
の城主となりました。

 

 

130421aguri20134三次浅野家(瑶泉院の実家)の上屋敷跡付近

 

 

元禄赤穂事件(忠臣蔵)直前にできた坂

その三次浅野家の上屋敷のあった場所が
「新坂」の突き当たりの場所一帯なのです。

 

「新坂」の標識によりますと元禄12(1699)年に
新しくできた坂ということです。

 

元禄赤穂事件(忠臣蔵)は元禄14(1701)年
の3月14日に起こりました。
これは旧暦ですので、現在の暦でいいますと4月21日。

 

そして義士達の討ち入りは翌、元禄15年12月14日。
これも現在ですと1月30日ということですので
1702年ではなく1703年ということになります。

 

あの討ち入りから今年で三百十余年の年月が流れました。
「新坂」は元禄赤穂事件(忠臣蔵)
直前にできた坂だったのですね。

 

瑶泉院もこの「新坂」を歩いたのでしょうか。
まだ「あぐり」という名前で呼ばれていた頃に。

 

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「赤坂」の地名のもととなった「紀伊国坂(茜坂)」 赤坂の坂9

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151030kinokunizaka

 

 

外堀沿いにある坂

今日、御紹介する赤坂の坂は「紀国坂」です。
以前もブログに書きましたが(「『赤坂サカス』
と『赤坂』の
名前の由来」)、赤坂という
地名の由来となった坂といわれています。

 

「紀ノ国坂」「紀之国坂」とも書き、
住所は港区元赤坂1丁目7-22。

 

そんなに急な坂ではなく、全体の距離が231メートル
で、高低差は12.88メートルほどです。

 

下の地図で中央あたりを左下から斜め上に走って
いるのが青山通りで、その通りと首都高速4号
新宿線と交わるように見える場所が赤坂見附。

 

 

kinokunizakaピンク色の部分が「紀国坂」

 

 

 

紀州藩の御屋敷から命名

赤坂見附の交差点から、高架線の首都高速沿い
に、外堀通りを迎賓館の入口の方に向かって
いく途中に「紀国坂」があります。

 

「紀国坂」の始まりの場所がこの写真。
右上の方に見えるのが首都高速4号新宿線です。

 

 

151030kinokunizaka

 

 

左側は、現在は赤坂御用地です。
江戸時代はここに紀州(和歌山)徳川家の上屋敷が
あったので「紀国坂」という名前がつきました。

 

こちらは江戸時代の地図です。

 

 

kinokunizaka (地図「東京の坂と橋」)

kinokunizaka

 

 

こうして並べてみますと、基本的な地形は
江戸時代とほぼ同じでなのですね。

 

次の写真は山王の高台から赤坂を見た古い写真です。
写真の右手前が現在の山王の高台。

 

 

a0277742_15191425山王高台から赤坂を臨む
(写真/「大江戸歴史散歩を楽しむ会」)

 

 

中央に大きな川が横たわっているように
見えるのは、なんと溜池です。

 

これが「溜池山王」の名前の由来でもあり、
今はなくなってしまった溜池です。

 

そして右端に緑が一群見えて、その上
あたりに見えるのが「紀国坂」です。

 

「紀国坂」の左の方にあるのが
赤坂仮皇居、現在の迎賓館。

 

 

 

「紀国坂(茜坂・赤坂)」→地名の「赤坂」へ

「紀国坂」の標識の場所から坂を上っていくと
元紀州家の御屋敷だった左手は
こんな感じで続いていきます。

 

 

151030kinokuni右「紀伊国坂」、左「元紀州家の上屋敷」

 

 

このあたりには染料や生薬として知られる茜(赤根)の
生えている、赤根山と呼ばれる山がありました。

 

その赤根山へ登る坂ということで、この坂が
「赤根坂(茜坂)」と呼ばれるようになり
「あかねざか」が「あかさか」へと変化します。

 

 

akane茜の花

 

 

その後、赤坂という名前は、坂のみならず
このあたり一帯の地名としても
使われるようになったのです。

 

赤坂という地名は、江戸以前にはなかった
そうですので、まさに赤根山が赤坂という
名称のもととなったのですね。

 

 

 

赤坂御用地のお隣は迎賓館

紀州徳川家の上屋敷、現在の赤坂御用地
を通り過ぎますと、旧赤坂離宮、現在の
赤坂迎賓館の敷地に入ります。

 

こちらの門は、赤坂迎賓館の東門。

 

 

151030higashimon迎賓館の東門

 

 

迎賓館の入口付近は、もう「紀国坂」ではありませんが
来てみますと、「釣瓶(つるべ)落とし」といわれる
秋の空は、既に茜色に染まっていました。

 

 

151030geihinkan迎賓館のフェンス

 

 

「紀国坂」といえばラフカディオ・ハーン
(小泉八雲)の「狢(MUJINA)」ですよね。

 

「のっぺらぼう」に出会わないうちに
帰ることにしましょう。
(小泉八雲(Lafcadio Hearn)の「狢」)

 

 

 

「紀国坂」→「弾正坂」→虎屋の前

帰りは来た時の赤坂見附方面ではなく
以前、御紹介した「弾正坂」を通って
青山通りに出ることにしました。

 

 

danjozaka

 

 

次の写真は、地図でいいますと「弾正坂」の上半分
(赤坂御所沿いに青山通りまで)のものです。

 

 

150827danjozaka「弾正坂」右手は赤坂御用地、突き当たりが青山通り

 

 

青山通りに出て、すぐ目の前にあった虎屋の本店は
以前お知らせしたように(「ビル立て替えのため
3年間お休み」
)、もう営業を休止しています。

 

写真は休業前の虎屋、まだ
「とらや」ののれんが見えます。
虎屋と右の赤坂警察署の間の道が
「弾正坂」の、先ほどの続きの部分。

 

 

150827torayakeisatusho左「虎屋」、中「弾正坂(の半分)」、右「赤坂警察署」

 

 

いつもこの場所にあったお店が見えなく
なくなってしまうのは、ちょっと寂しいですね。

 

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