加賀藩3代藩主・前田利常(2/3)    「肥後殿のおどけ」  

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

    前回(「加賀藩3代藩主・前田利常」
    の続きです。

 

 

再び謀反の嫌疑

利常の代にも前田家は、家光から
謀反の嫌疑をかけられたことがありました。
幕府の許可なく金沢城の修復をしたり、軍船を
多数買い入れたりした等のことがその理由。

 

家光に弁明を願い出るも拒否された利常は
加賀藩で最も弁の立つ家老・横山康玄(やすはる)
を江戸に送り、全てを認めた上で、
しかし謀反とは無関係であるとの説明をします。

 

すると驚くべきことに、これが受け入れられました。

 

 

 

 

お取り潰しになった他藩より、はるかに疑われても仕方
のない状況にもかかわらず受け入れられたのは、一説
には賄賂ともいわれますが、証拠はなく不明です。

 

そしてこの時も、幕府から一つの条件がつけられました。
それは利常の次の4代藩主・光高に、家光の養女・大姫
(水戸藩・徳川頼房の娘)を迎えるようにとのこと。

 

この後も、光高の子・綱紀には家光の弟・保科正之の
娘を正室にというように、歴代藩主の正室を徳川家
から迎えることが多く重ねられています。

 

 

 

 

 

「空から謡が降ってくる」といわれた金沢

加賀藩のとった文化政策は、幕府の警戒心を
解くためともいわれますが、それはさておき
結果としては素晴らしい工芸作品等を生みました。

 

2代・利長の代に作られた「御細工所(おさいくしょ)」
と呼ばれる武具管理用の藩のお抱え作業所を、利常は
美術工芸品製作所に変え、京都から優れた工芸作家
を招聘します。

 

手がけられたものは、絵細工、漆工、象眼、鍛冶、
各種金具など多岐にわたり、「加賀宝生」とも
いわれるように、宝生流のお能も盛んでした。

 

 

 

 

 

「改作法」

また塩の専売制をしいて塩の生産を高めたり、1651
(慶安4)年から1656(明暦2)年にかけて利常は
「改作法」と呼ばれる藩政改革にも取り組みました。

 

実はこの時期、藩主は5代・綱紀だったのですが
4代・光高が早世したため、利常が幼い綱紀の
後見をしていた当時の施策です。
後に、成人した綱紀が引き継ぐことになりました。

 

「改作法」は、窮乏していた百姓に、藩庫の
米銀を貸し与え、他から借りることを禁じ、
今まで家臣たちが行なっていた年貢米の取り立て
を、藩が直接に行うという画期的なものです。

 

こうした優れた利常の治政から、加賀藩は
「政治は一加賀、二土佐」
といわれるまでになりました。

 

 

 

 

 

「鼻毛大名」「〇〇大名」

「政治一は加賀」といわれた利常ですが、当時
「もっとも奇行の激しい殿様」あるいは
「江戸城内でも常に変人扱いされていた」といいます。

 

家臣が止めるのも聞かずに鼻毛をのばしていることから
「鼻毛大名」と呼ばれたり、長期間下屋敷から出仕
せず、久しぶりに登城した際に、咎められた利常は、

 

殿中であるにもかかわらず突如、袴をめくって
「年をとるとお〇〇の調子が悪くなって仕方ない」
と言い訳をしたことから「〇〇大名」と
あだ名がついたほどでした。

 

 

 

 

 

「馬鹿殿様」を演じて

この他にも頭巾着用禁止の室内で平然とかぶっていたり、
「小用禁止、罰金を科す」と書いてあるところで
堂々と用を足した後に小判を投げて去るといった具合。

 

このような数限りない「馬鹿殿」ぶりは様々な文献
に記録され「肥後殿のおどけ」と呼ばれていました。

 

『微妙公直言』には、利常は常に髪の毛を乱して
目を白黒動かしながら早口で話してみせた、
とも記されています。

 

 

 

 

 

「傾奇者(かぶきもの)」

しかしもちろん、これは利常の演技。
鼻毛の件を注意された時に利常はこう答えています。

 

「利巧面(りこうづら)をしていては、またどんな
無理難題をふっかけられるかもしれぬ。無能な顔をして
人々が安心するからこそ百万石は安泰なのだ」と。

 

金沢城の改築等で謀反の嫌疑をかけられた時に
幕府が得ていた情報の正確さは、加賀にスパイ
を置いていることを物語っています。

 

利常が藩主として有能であればあるほど、幕府に
目をつけられるのは必定、であるならばいっそ逆に
悪目立ちをしてしまおうと考えたのかもしれません。

 

とはいえ、いやいや馬鹿殿を演じた
わけでもないでしょう。

 

これらのことは「傾奇者(かぶきもの)」
としての利常の傾(かぶ)き方だった
のではないかという気もします。

 

 

 

 

 

世が世ならば

「肥後殿のおどけ」といわれた利常は、このような
本音を、側近・藤田安勝に漏らしてもいます。

 

「太閤時代には徳川家と前田家は同格だった。
たまたま家康が長生きして天下をとっただけだ」と。
              (『微妙公卿直言』)

 

 1598(慶長3)年 豊臣秀吉死去
 1599(慶長4)年 前田利家死去
 1600(慶長5)年 関ヶ原の戦い

 

死を間近にした家康の気がかりは、有力外様大名の
ことでしたが、秀吉のそれはまだ幼い秀頼のことでした。

 

「かえすがえす秀頼の事頼み申しそうろう」と書き残した
秀吉が、秀頼の補佐役として選んだ五大老が前田利家、
徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の有力大名。

 

 

 

「唐物茄子茶入れ  富士(からものなすちゃいれ  ふじ)」
高5.5cm 口径3.7cm 胴径7.1cm 底径3.0cm
南宋(1101〜1300) 前田育徳会所蔵

 

 

 

五大老の筆頭

中でも信頼していたのは前田利家といわれています。
秀吉は死の前年に、信長から伝えられた「富士茄子」
と呼ばれる茶入れを利家に贈っています。

 

足利将軍・義輝の所持していたと伝えられる大名物で
曲直瀬道三(1507〜1595)、織田信長(1534〜1582)、

 

を経て秀吉(1536〜1598)のもとにあった
この天下人から天下人へ伝えられた「富士茄子」
を渡した相手は利家でした。

 

 

 

 

秀吉が、1598年8月に死去した翌年の元旦、
伏見城には秀吉の後継である秀頼への
新年の挨拶のために、諸大名が集まりました。

 

病をおして出席した利家が、6歳の秀頼を抱いて
現れ、秀頼の後見としてともに着席したさまは、

 

「諸大名はまさに利家に拝謁しているようであった」
と『関ヶ原集』には記されています。

 

 

 

 

たまたま徳川の世になり、たまたま藩主となった利常。
好むと好まざるとにかかわらず、利常が藩主と
なった前田家は、たまたま大大名でした。

 

現世で巡り合わせた、このたまたまの必然を
利常はもって生まれた能力を全力で駆使し
最期の時に向かって駆け抜けたように思えます。

 

時には忍辱の衣を着、
ある時は、濡れ衣を晴らすために誠実に弁明をし、
すぐれた施作を打ち出しては
「政治一は加賀」と言わしめ、
また別の時はおどけた変人の傾奇者(かぶきもの)
として振る舞う。

 

そのどの瞬間のを掬いとったとしても、
そこに見えるのは紛れもない前田利常その人。

 

 また長くなってしまったので次回に続きます。
 ごめんなさい、次回で終わりますので。

 

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加賀藩3代藩主・前田利常(1/3)

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関ヶ原の戦いの数年前に生まれた前田利家の四男

加賀藩3代藩主の前田利常は、息子の大聖寺藩・
初代藩主の前田利治に九谷焼の窯を築窯させ
現在も残る多くの古九谷を焼かせたり、
長崎に御買物師の常駐を任じた大名でした。

 

長崎の御買物師を通じて、オランダのデルフト焼を
日本で初めて注文したのも利常です。

 

もっとも注文は4代藩主の光高の名で行われた
ようですが、実際のところは顧問を務めていた利常の
指図のもとで行われ、利常は手に入れたデルフト焼
の意匠を九谷焼の参考にしたともいわれています。

 

利常が前田利家の四男として、利家の正妻・まつ
(芳春院)の侍女だった千代(寿福院)から
生まれた時、将来利常が藩主になろうとは
誰一人思いませんでした。

 

 

まつ(芳春院)

|ーーー利長(長男) 2代藩主

|ーーー利政(二男) 七尾城主

|ーーー幸姫(長女) 前田長種に嫁ぐ

|ーーー蕭姫(二女) 中川光重に嫁ぐ

|ーーー摩阿姫(三女)秀吉の側室、後に
|          万里小路充房に嫁ぐ

|ーーー豪姫(四女) 秀吉の養女となり
|          宇喜多秀家に嫁ぐ

|ーーー与免(五女) 浅野幸長と婚約するも
|          若くして亡くなる

|ーーー千代姫(六女) 細川忠隆に嫁ぎ、
|           後に村井長次に嫁ぐ

—————————————————–
*前 田 利 家(1537〜1599)1538、39年生説も
—————————————————–
 |     |     |     |
 |ー知好  |ー利常  |ー利孝  |ー利貞
 |(三男) |(四男) |(五男) |(六男)
 |     |     |     |
金晴院   寿福院   明運院   逞正院

 

 

利常が生まれた時、父・利家は56歳。
誕生のしばらく後、利常はまつ(芳春院)の
長女・幸姫と夫の前田長種のいる越中守山で
養育されることになりました。

 

利常が父と初めて会ったのは、長種の
もとにいた1598(慶長3)年、5歳の時。
その翌年に、利家は亡くなりなっています。

 

 

利常がオランダのデルフトに注文したといわれる
「和蘭陀白雁香合(おらんだはくがんこうごう)」
石川県立美術館

 

 

 

前田利常(まえだとしつね 1593〜1658)

幼名は「猿千代」、初名は「利光」。
1605(慶長10)年、2代・利長が隠居し、利常が藩主に。

 

1623(元和9)年に、3代将軍・家光が就任後、
1626(寛永3)年、家光の「光」の字が
自分の名前の下になるのは無礼ということから
諱(いみな)を「利常」に改めます。

 

 

同年、従三位権中納言。
1639(寛永16)年に小松城で隠居。

 

1645年(正保2)年に、4代・光高が急死。
5代・綱紀が3歳だったことから、家光の命令で後見人に。
綱紀の正室に家光の弟の保科正之の娘・摩須姫を迎える。

 

1658(万治元)年、66歳で死去。
法号は微妙院。

 

 

 

 

謀反の嫌疑をかけられ、まつは人質に

1599(慶長4)年の利家の死後、半年ほど経った頃、
2代藩主となっていた利長が家康の暗殺を企てていると
の密告により、家康は前田家征伐の意思を表明します。

 

これに驚いた利長は、嫌疑を晴らすために使者を家康
のもとに送り、母のまつを人質として家康のいる江戸へ
送るということで解決をみました。(『前田家雑録』)

 

「(慶長五年)三月利長、横山長知及び有賀直政を
大阪に遣り家康に謁して和親を締せしめ、遂に芳春院
を徳川氏に質たらしめ、これに代ふるに秀忠の女を
利長の弟利常の配として迎へ、以て二氏の親眤を
繋がんことを約し、芳春院も亦家門の存亡に關する
大事なるが故に、敢えて関東に赴かんことを諾せり。
是を以て五月二十日芳春院は村井長頼をs
従へて伏見を発し、六月六日江戸に入る。
これより前田氏の死命全く徳川氏に制せらる。
諸侯の妻子を証人として江戸に置くの例、
亦是を以て權輿となす。」

(石川図書館 石川県史・第二編 加賀藩治創始期)

 

 

 

 

 

利長の死去後、人質を解かれる

まつは翌1600(慶長5)年に
「侍は家を立てることが第一。されば我を捨てよ」
              (『加賀藩史料』)
と言い残して江戸にたち15年間の人質生活を過ごします。

 

人質生活中に2代藩主・利長が亡くなると、まつは
利長亡き今、私は人質として江戸にいる意味がないので
願わくば、現藩主・利常の母を金沢から江戸に呼び
私を国に返してくださいとの意を願い出て許可されます。

 

 

 

 

「利長の薨じたる後、六月上旬芳春院は將軍秀忠
に請ひて曰く、今や利長已に空しく、妾にして江戸
江戸に在るも質として何等の價値あることなし。
願はくは今侯利常の生母壽福院を金澤より出府、
せしめ、妾に暇を賜ひて國に就かしめよと。」
                 (同上)

 

金沢にまつが戻ったのは、1614(慶長19)年、
68歳の時、代わりに利常の母・千代(寿福院)
が江戸上屋敷に到着。

 

まつは、1615(元和元)年に豊臣氏が滅亡た
2年後の1617(元和3)年に、秀頼の妻に
会った後、71歳で亡くなりました。

 

 

 

 

 

利常は丹羽長重の人質に

1600(慶長5)年9月、関ヶ原の戦い直前に起きた
前田利長(東軍)と丹羽長重(西軍)の「浅井畷
(なわて)の戦い」の後、敗北した長重は、東軍
との講和を望んだだめ、利常は人質として
長重のもとに送られることとなりました。

 

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、利長は東軍、
弟の利政は西軍でしたが、利長が東軍についたことを
重くみた家康は、前田家を32万石から120万石へに加増。

 

家康はその際、利長に条件をつけたといいます。
「利長は隠居し、家督は利常に譲る」ことと、
「利常は家康の孫娘を正室とする」ことを。

 

 

 

 

 

家康の孫娘との婚姻、3代藩主になる

1601(慶長6)年、利常は兄・利長の嗣子となり、名を
「利光」と改め、家康の孫娘である秀忠の娘を迎えます。
その時、利常は7歳、珠姫にいたってはわずか3歳。

 

そして4年後の1605(慶長10)年6月、利長は
10歳を過ぎた利常に家督を譲り、自らは
20万石の富山城主として隠居しました。

 

大坂冬の陣の前年にあたる1614(慶長19)年、
利長は豊臣方に、味方につくよう説得されます。

 

 

140909tubuyorikomati

 

 

その時、利長は「自分は味方するが、利常は徳川の婿に
あたるので味方できない」と繰り返し答えたといいます。

 

徳川から正室を迎えた藩主の立場を配慮する
利長は、幕府から再び謀反の嫌疑をかけられる
ことを恐れて、20万石も自ら返上しています。

 

また冬の陣の直前には、らい病で身動きすらできない体
をおし、自らの身柄を京都所司代に預けようとした利長は
冬の陣の直前、1614(慶長19)年5月に亡くなりました。

 

 

 

 

 

家康の気がかりは有力外様大名

1614(慶長19)年の大坂冬の陣、翌1615(元和元)年
の夏の陣によって豊臣家は滅亡します。

 

1616年には天下統一を果たした家康が、死を迎える際
に気がかりだったのは、有力な外様大名のこと。
利常を臨終の床に呼び寄せた家康はこう言ったといいます。

 

「お前をなんども殺してやろうと思ったが、利常に嫁いだ
珠姫の父・秀忠が反対するので助けてやったのである。
これを恩義に思って秀忠に使えるように」と。
                (『拾纂名言記』)

 

 

 

 

この時に利常と同じ豊臣の家臣であった外様大名の
肥後藩主・加藤忠弘と、安芸藩主・福島正則も
家康に呼ばれて同様の言葉を伝えられています。

 

二代将軍の秀忠の時代に、52万石の加藤忠弘が、
三代将軍の家光の代には、50万石の福島正則が
それぞれ改易されていますので、120万石の
前田家が、心穏やかならぬ日々を過ごしていた
のは想像にかたくありません。

 

そして案の定といいますか、三代・家光の代になり
前田家に再び謀反の嫌疑がかけられてしまうのですが
長くなりましたので、それは次回にお話ししましょうね。

 

   (参考/宮元健次「加賀百万石と江戸芸術
     前田家の国際交流」人文書院 2002
    磯田道史『殿様の通信簿」新潮社2006
    石川県立図書館・石川県史)

 

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ネコやイヌまでをも供出させる戦争

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「氏家法雄 ‏@ujikenorio」2015年6月7日のツイート

2年ほど前の6月7日に、氏家さんという方が
このようなツイートをしていらっしゃいました。

 

「昭和17年の夏、役場から突然
『猫を供出せよ』とのお達し…
『アッツ島を守っとる兵隊さんの
コートの裏毛になるんじゃ』

 

『女の気持ち:私の猫』毎日新聞2012年8月3日付。
タバコ吸いにリビング横切ったらタマが起きた。
俺は絶対いややで。」

 

毎日新聞に掲載されていた「私の猫」と題する
戦時中にネコを供出させらるという経験をなさった方
の投稿を、お読みになった氏家さんが呟いた言葉です。

 

「おれは絶対いややで」。
兵隊さんのコートの裏毛にするためにタマを
供出するなんて絶対に、絶対に「いややで」
と思われたのでしょう。

 

このツイートに添えられていたのが、このネコの写真。
そう思ってみるせいなのかもしれませんが、タマちゃん、
単に可愛いというだけではなく、いかにも何かを
言いたげなちょっと戸惑ったような表情にも見えます。

 

 

タマちゃん(写真/氏家法雄さんのツイッターから)

 

 

 

「毎日新聞」2012年8月3日の記事

氏家さんのツイートにタマちゃんの写真とともに
添えられていた毎日新聞の記事「私の猫」はこちらです。

 

 私の猫

「昭和17(1942)年の夏、岡山に住んでいた。
役場から突然『猫を供出せよ』とのお達しがあった。
うちの飼い猫は、私が物心ついた頃から我が家にいた。
名前はタマという。

 

学校から帰り、『タマ』と呼ぶと、『ニヤッ』と
答えるだけで、いつもかまどのそばで丸くなり
寝ている老いた猫だった。

 

「猫をどねーするん?」。
役場の人に尋ねると、
『アッツ島を守っとる兵隊さんのコートの
裏毛になるんじゃ。
アッツ島は寒うてのう。零下40度にもなるんじゃ。
お国の役に立つんじゃ、めでたい』と言った。
そして次の日の昼までに役場に連れてくるように
指示して、帰った。

 

私は母に言った。
『山に隠そうや。お墓の裏なら、誰にも
見つからんで……』。
しかし、母は首を横に振った。
『そねーなことをして見つかったら大事じゃ。
憲兵に連れて行かれる。軍のお達しじゃ、
聞かないけん』と言い返してきた。

 

私は泣きながら、近所の神社へ走った。
神社には大きな杉が6、7本あり、南側は川だった。
そこはどこからも見えないので、大声で泣いた。

 

『タマは殺されるんじゃ。
毛皮にされるんじゃ。可哀そうじゃ』。
升で量りたいほど涙が出た。
顔が腫れていた。

 

夕方、家に帰ると、タマはもういなくなっていた。
私のいない間に父が連れて行ったようだった。

 

アッツ島で日本軍は玉砕している。
私の猫はどうなったのだろう。
夏休みの時期になると思い出す。

         大阪府八尾市 主婦 79歳」

 

 

 

 

 

私の主治医の体験

何度見ても悲しすぎる毎日新聞の記事を読んで
私は同じような話を思い出しました。
かなり前に歯医者さんで聞いた話です。

 

こちらはネコではなくシェパードの
「ミラー」というイヌでした。

 

この話をしてくれた歯医者さんの父親も
歯科医で、ミラーという名前は診察の際、口の中に
入れて歯をみる鏡「ミラー」からつけたそう。

 

 

写真は本文とは関係ありません
草むらで保護されたイヌの
シーズー犬は子猫を守ってました

 

 

 

当時、5歳になったかならないかという年頃の
私の主治医は、毎日新聞に投稿していた女性より
少し年下と思われますが、今でもミラーのことが
心に大きな傷として残っているようです。

 

私自身はイヌやネコの供出の話は、その時に
初めて知って憤りや悲しみは感じましたが
それ以前に不思議な気もしました。

 

お寺の鐘などの金属類を供出させた話は
前に聞いたことがあります。

 

でもコートの裏毛のために、ペットのネコやイヌの
毛が必要なんて一瞬、信じられなかったのです。
まさか、そんなこと……、と。

 

 

 

 

 

「 NHK 北海道  NEWS  WEB」2017年8月11日

ですが残念ながらこの信じがたい酷いことは事実です。
昨日の「NHK  NEWS  WEB」にこのような
記事がありました。
「戦地に姿を変え送られた犬やネコ」(北海道 NEWS WEB)

 

この記事によりますと、イヌやネコの毛をコートの裏毛に
使用する取り組みは、北海道が全国に先駆けておこなった
ものでその後、全国に広がっていったということです。

 

北海道内では、1944(昭和19)年から人々に
供出を呼びかけ、終戦までにおよそ7万匹の
イヌやネコが処分されました。
この数は、あくまでも北海道内のみでの数字です。

 

 

 

 

そうして供出されたイヌやネコが、次にどのように
なるかを目撃した人の動画もつけられていました。
加藤光則さん、83歳の体験です。

 

当時10歳だった加藤さんは、後志の共和町に住んで
いましたが、学校からの帰り道で、皮を剥ぎ取られた
イヌやネコが積み上げられているのを目撃します。

 

「イヌやネコが雪の中に毛皮になって、丸裸になった
やつは片側にずっと分けて積み上げてある」という
加藤さんの次の言葉が最初、私には理解できませんでした。

 

 

 

 

「生きたまま血だらけで逃げたのは今でも目に
焼き付いている」という言葉なのですが、何度か
その部分を再生し、また文章を読み返すことでやっと
私は理解することができたのです。
このむごすぎる文章の意味が。

 

「毎日の生活の家庭の中に直接戦争が入り込んでくるんだと。
鉄砲の弾が飛んでくるとか爆弾が落ちるという形で入って
くるんじゃないんです」と語る加藤さん。

 

 

 

こちらは、目の見えない友達(左)を助けるイヌ

 

 

この動画には、供出の経緯について調べている
地域史研究者の西田秀子さんも出ています。

 

「撲殺されて毛皮にされて兵隊さんの防寒着になったり、
帽子になったりして戦場に姿を変えていくわけなん
ですけど、それが実際のリアルな戦争の姿ですよね。
その状況っていうのは想像してみなきゃならない。
そのために、体験者の話を実際に聞き取ってみなさんに
伝えていくことが私の仕事じゃないかと思っています」

 

と西田さんは話していました。

 

 

 

 

日常生活に戦争が入り込んでくることの恐ろしさ、
実際のリアルな戦争のむごたらしさ……。

 

それを私たちが実際に体験しないようにするには
何をしたらよいかを考える段階も過ぎて、今は
もう実際に行動する時期が来ているのかもしれません。

 

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