2016年2月21日に喜多流宗家の喜多六平太氏
がお亡くなりになりました。
「喜多六平太氏が死去
* 能楽シテ方喜多流十六世宗家
*2016年2月25日 22:46 日本経済新聞
喜多 六平太氏(きた・ろっぺいた=能楽
シテ方喜多流十六世宗家)21日、脳梗塞の
ため死去、91歳。
お別れの会は3月26日午前11時から東京都
品川区上大崎4の6の9の十四世喜多六平太
記念能楽堂。
1987年に十六世六平太を襲名。
同年から91年まで能楽協会理事長を務めた」
1924年12月6日
1928年、仕舞「猩々」で初舞台
「禅師曽我」で初シテをつとめる
1986年に十六世宗家となり
1987年に喜多六平太を襲名
2016年2月21日 死去
喜多 六平太は、能楽シテ方
喜多流宗家の当主が用いた名。
以下の3人が、当主として六平太の名を名乗る。
中でも明治〜昭和期に活躍した
名人・14世喜多六平太が名高い。
喜多流は、江戸時代(徳川秀忠)に金剛流から
分かれた新しい流儀で、明治期に他のシテ方
と共に「五流」の一つとなったとのこと。
12世喜多六平太(能静)
*11世七大夫長景の子。
*幕末〜維新期の大夫。
14世喜多六平太(能心)
*12世の三女の子。
*明治〜昭和期にかけ、喜多流の再興に尽力。
16世喜多六平太(長世)
*15世実の長男。当代。
「六平太」の名は、ポルトガル語で巾着
(堤物)を指す言葉とされる「ロッペイタ」
に由来しているとされます。
『喜多流秘事書』によれば、喜多流初代
・北七大夫は幼少期、豊臣秀吉に腰巾着の
ように常に近侍して寵愛を受け、そのため
秀吉より南蛮製の巾着の名である「ロッペ
イタ」の名を授かり、幼名として「六平太」
を名乗ったのだということです。
野々村戒三によればポルトガル語の「進物、
賄賂」という言葉がこの発音に近いといい、
そこから献上品であった堤物が「ロッペイタ」
の名で呼ばれていたのではないかとも推測
されています。
また後述の14世六平太によると、この巾着と
いわれるものが喜多家には伝わっており、
革製のものであったといいます。
「喜多六平太記念能楽堂」(東京・目黒)
「伝統文化・名流の記事より
* 東京新聞 2002年12月28日
「和泉宗家に限らず、能楽宗家のご難が
続いている。
数年前だが、シテ方喜多流の喜多六平太宗家
が財団を私的に使ったとして理事長の座を
追われ、喜多流職分会自主公演の能会となり、
宗家は弟子たちから離反され、対立はいまも
深まる一方だ」
「能面や装束は分割可
* 能楽喜多流相続で最高裁判決
* 産経Web 2006年6月1日
能楽シテ方五流の一つ『喜多流』十五世
宗家の故喜多実氏の遺産相続人2人の間で、
江戸時代から引き継がれてきた実氏の能面
や能装束の分け方が争われた訴訟の上告審
判決が1日、最高裁第1小法廷であった。
判決によると、実氏は昭和53年8月、能面
と能装束一切を六平太氏と節世(さだよ)
氏にいっしょに相続させ、持ち分は2分の1
ずつと遺言。
実氏死後の平成10年6月、節世氏が六平太氏
側が管理する能面などの分割を求めて東京
簡裁に調停を申し立て、六平太氏が節世氏
の持ち分を買い取る方法などが検討された
ものの、不調に終わった。
節世氏が14年9月に提訴し、節世氏の死後
は持ち分を相続した真王氏が訴訟を続けた」
お能「木賊」のみに用いられる装束
「おもちゃ尽掛素襖」
(写真/「粟谷明生の能がたり」)
「能面や衣装(能・狂言では装束と呼びます
が)は、だいだい宗家に受け継がれて長く使
われ続けるものなので、こういう相続問題で
揉めないように、『財団』などを作って、
私財扱いにしない工夫をしている家が多い
ようですが、喜多流の場合は、先代の家元が
二人の息子に相続させた→宗家となった長男
が問題を起こした→事実上、宗家としての
権限を失って、興行ができない状態になった
……ということで、ゴタゴタしてしまったの
ではという感じですね。
作家・秦恒平氏(マンガ家・秦建日子氏の父上)
が、2000年5月27日の「日記」としてネット上
に公開している記録には、
『家元喜多長世(=十六世宗家・現六平太)は
逼塞し弟節世は病んでいる』とあります。
先代家元の次男・節世氏の養子は、能楽師では
ないようですが(今年5月?に、昭和女子大の
人間文化学部 日本語日本文学科で『能に親し
む』という特殊研究講座の講師を務めてらっし
ゃったみたいですね)、実質的に喜多流の興行
を仕切っている「喜多流職分会」とどういう
関係にあるのかも、報道されている情報では
見えません。
でもなあ……価値のある面(おもて)や装束
(しょうぞく)は、きちんと舞台の上で活かし
もらいたいと思うので、バラバラに競売にかけ
てお金に換える……なんてことはしていただき
たくないですねぇ。
粟谷能の会 粟谷菊生『私の師』
「私は初め父に習い、通いの内弟子と
して喜多実先生に師事しました。
後に(十四世)六平太学校に入りますが、
実先生は、『一所懸命弟子をこしらえ
あげると、オヤジが持っていってしまう』
と嘆いておられたものです。
六平太学校の一番の先輩は故友枝喜久夫先輩、
若いほうでは孫の喜多長世(現六平太)さん、
故節世さん、そして私は先生のお稽古に
間に合った最後の弟子といえましょう。
兄も私も、友枝喜久夫先輩には謡をずいぶん
教わりました。友枝さんと兄との仲は、
他人には計りしれないものがありました。
* 『二条河原落書』」