古九谷(九谷焼)

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古九谷「青手土坡に牡丹図大平鉢」石川県九谷美術館所蔵

 

 

 

柿右衛門の最初の赤絵を購入したのも御買物師

加賀藩の3代藩主・前田利常は、1637(寛永14)年
から長崎に「御買物師」と呼ばれる役人を常駐させて
海外からの輸入品を買い求めたり、また海外へ
発注もしていました。
「前田家が東インド会社を通して
注文したデルフト焼」

 

御買物師が購入したのは海外のものに限りません。
1646(正保3)年に酒井田柿右衛門が初めて完成した
色絵磁器(赤絵)を売ったのも前田家の御買物師です。

 

酒井田柿右衛門家に残る「覚」には、1647(正保4)年
6月の初め、赤絵を長崎に持参し前田家の御買物師・
塙市郎兵衛(はなわいちろうべえ)に売った
との記載があります。

 

 

 

 

 

 

 

突然現れる「九谷焼」の文字

前田家は入手したデルフト焼や肥前磁器を
研究して九谷焼へ応用したといわれています。

 

そういえ以前、肥前磁器の様式の変遷を
以下のような図で示したことがありました。
「『柿右衛門』と『柿右衛門様式』の違い」

 

唐津焼という陶器から、初めて磁器が焼かれる
ようになり、最初の頃の伊万里焼を「初期伊万里」
と呼び、その後多彩な色や金彩が加えられる様子を
表したものです。

 

 

          唐津焼(陶器)

1600年 ____________________
          初期伊万里

         初期色絵(古九谷)

1650年 ____________________

 大河内山  南川原山  内山・外山  武雄市など
  鍋島  柿右衛門    |      |
  |     |     |      |
  |      古 伊 万 里 金 蘭 手
1700年 ____________________

  ⇩           ⇩      ⇩

 

 

この図の中で不思議に思ったのは、1650年の前に
書かれている「初期色絵(古九谷)」という部分です。

 

肥前磁器(有田焼・伊万里焼)の初期色絵のところに
なぜ突然、九谷焼という言葉が現れるのでしょうか?

 

 

前田家がデルフトに発注した
「和蘭陀白雁香合
(おらんだはくがんこうごう)」
江戸初期 石川県立美術館

 

 

 

幻の「古九谷」

実はこれには古九谷の謎が絡んでいるのです。
九谷焼は、有田焼と並ぶ日本を代表する焼物ですが
まだわからないことも多く、日本陶芸史最大の謎
ともいわれています。

 

九谷焼は、加賀藩前田家の全面的支援のもと
加賀藩の支藩である大聖寺の加賀国江沼郡九谷村
(現在の石川県江沼郡山中町九谷)にある藩窯で
焼かれ始めました。

 

江戸初期から始まって中期ごろに一時途絶え
幕末に復活。

この途絶える前に焼かれてい九谷焼を「古九谷」
と呼びますが、これがいつ誰によりどのように
作り始められたのかについて様々な説がありますが
正確なことはわかっていないのです。

 

 江戸初期〜中期頃  古九谷
幕末に復活     九谷焼

 

復活して以来、現在まで焼き続けられている九谷焼
としては中村梅山や須田精華をご紹介したことが
ありますが、様々な謎があるのは古九谷の方です。

 

 

中村梅山

 

 

 

利家も朝鮮人陶工を連れ帰った?

伊万里焼は、1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に
捕虜として連れてこられた朝鮮人陶工の一人、
李参平が1616年に有田泉山で白磁鉱を
発見したことにより始まりました。

 

(現在でも鍋島藩窯公園には、捕虜として
連れてこられた陶工のたくさんの
供養塔が建っているということです)

 

この朝鮮出兵には秀吉の片腕として前田家初代
藩主・利家も出陣していましたので、鍋島直茂
だけではなく、利家も朝鮮人陶工を加賀に連れ
帰ったかもしれないと推測する方もいます。
  (大橋康二「将軍と鍋島・柿右衛門」)

 

 

 

「色絵菊文輪花大皿」青手
有田焼(伊万里焼)1650年代

 

 

 

有田焼(伊万里焼)から派生した九谷焼

加賀藩の支藩である大聖寺藩は、磁器づくりを習得
するために、後藤才次郎を有田に修行に出しました。
現在、残された文献から推測されることは、

 

1655年から1657年頃に、大聖寺初代藩主・前田利治
(としつぐ、利常の三男)が後藤才次郎を伊万里焼
の窯元へ修行に行かせ、1655年頃から焼かせた

 

ということですので、九谷焼は伊万里焼から
発生したことは間違いないと思われています。

 

 

 

古伊万里「色絵荒磯文鉢」金襴手
江戸時代 18世紀 根津美術館蔵

 

 

 

有田と古九谷の窯跡発掘調査

1960年頃から肥前有田焼(伊万里焼)の古窯の発掘
調査が行われると、そこで古九谷に酷似した染付模様
の破片や、全く同じ模様のものが有田の山辺田
(やんべた)古窯などからたくさん発掘されました。

 

1970年頃には古九谷の窯跡の発掘も行われています。
窯の所在地は、現在の加賀温泉郷の山中温泉となって
いる場所から大聖寺川を14キロほど上流の場所。

 

そこで発掘された破片は、有田焼の模様と酷似して
いるものもある一方、古九谷の初期作品に共通する
目跡や染付輪線、槍梅文を持たず、有田焼ではなく
京焼に酷似していました。

 

これらのことから推測されるのは以下の2点です。

1 後藤才次郎は有田焼を学んだのちに戻って
 古九谷を焼きますが、高い焼成温度を必要と
 する磁器を焼くことができず、1670年頃に
 窯の使用を中止した可能性が高い。

 

2 古九谷初期作品の特徴的模様が有田の古窯
* からは発見され古九谷窯からは発掘されて
* いないのは、初期古九谷は九谷窯ではなく、
* 有田で焼かれたのではないか。

 

 

 

古九谷
「青手土坡に牡丹図大平鉢
(あおてどはにぼたんずおおひらばち)」
口径 43.5cm 底径 17.8cm 高さ 10.2cm
(写真/「石川県九谷美術館)」

 

 

 

発掘調査から推測されること

かつて古九谷手として九谷で作られたと考えられて
いた作品と一致する色絵素地が、有田の山辺田窯跡
で発掘され、これらが1640〜1650年代に稼働して
いたことが判明しました。

 

また東京大学構内にある加賀前田判定跡遺跡
からも多数の古九谷様式の陶片が検出され、
それを化学分析した結果、伊万里焼と
一致していることが確認されています。

 

ということで、古九谷様式と呼ばれている
伝世品のうちの大部分のものが、有田の初期の
色絵磁器であったことが明らかになりました。

 

とはいえ九谷で全く焼かれなかったわけではなく
有田と九谷、どちらで焼かれたかについては
論争も続いているようです。
これからの研究を楽しみに待ちたいですね。

 

(参照 /
大橋康二「将軍と鍋島・柿右衛門」雄山閣 2007
宮元健次
「加賀百万石と江戸芸術 前田家の国際交流」
                人文書院 2002
* 矢部良明監修「日本のやきもの史」
              美術出版社 1999)

 

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前田家が東インド会社を通じて注文したデルフト焼

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鍋島家の献上品の一例

佐賀藩(肥前藩)鍋島家は関ヶ原の戦いで父・が
東軍、子・勝茂が西軍に属していたこともあり、
江戸幕府成立時から徳川家に対しては
ひときわ気遣いをしてふしが伺えます。

 

1616(元和2)年頃、勝茂が上府した際に
本多正信の取りなしで江戸城に登城し、
将軍・秀忠にお目見えした時の進物は
以下のようなものでした。

 

公方様へ 太刀一腰、馬代銀子三百枚、
     大巻物十端、繻珍(しゅちん)二十端

若君様へ 太刀一腰、馬代銀子五十枚、
       ひわんす十端

御台様へ 銀子五十枚、絹糸二十斤
(お江与)

お局へ  しゅちん二端

 

 

「黒地群蝶模様留袖(くろじぐんちょうとめそで)」
(写真/佐賀藩鍋島家「徴古館」)

 

 

 

将軍御成のために薩摩藩・島津家が注文

このように様々な、かつ気の利いたものを
献上するため勝茂は、長崎に来る中国船から
珍しい「とうもの」を購入する必要がありました。

 

また日本にきたものを購入するだけではなく、
時には日本から中国へ注文をすることもありました。

 

薩摩藩島津家は1627(寛永4)年の将軍御成の
ための道具類を中国で特別に誂えています。

 

 

 

「松図襖」狩野尚信 17世紀
(写真/佐賀藩鍋島家「徴古館」)

 

 

 

前田家の婚礼の際にも勝茂が助力

加賀藩主・前田利長の後継として、利常が
三代藩主になり徳川秀忠の娘・珠姫を輿入れ
させるようとの命が家康から下されました。

 

1601(慶長6)年のその慶事の際に必要なもの
を利長は鍋島勝茂に依頼したと思われます。

 

勝茂は、必要なものが記されたリストをもとに
「長崎にポルトガル船がついたらすぐに
買い調えるよう」家臣に命じでいます。

 

 

初めて日本にやってきたオランダ船
「デ・リーフデ号」を復刻したもの(長崎テンボス)

 

 

 

加賀藩の「御買物師」長崎に常駐

その後、加賀藩の3代藩主となった利常は、
1637(寛永14)年6月、長崎の平戸に海外
からの輸入品を買い付ける「御買物師」
と呼ばれる役人を常駐させています。

 

長崎などの名物を収集するよう、家臣の
矢野所左衛門(やのところざえもん)に命じ、
配下の瀬尾権兵衛に目利きの吉文字庄兵衛
(きちもじしょうべい)をつけ、糸目を
つけずに買い求めさせました。

 

幕府は、1633(寛永10)年から1639(寛永16)年
にかけて、5回にわたって鎖国令を発布して
いますが、これに合わせて加賀藩も、御買物師
を長崎に常駐させることに踏み切ります。

 

御買物師は、長崎に入港する海外からの船が積んで
きた陶磁器や織物など値を構わずに購入しました。

 

1926(大正15)年に前田家伝来の文化財を
保存して後世に伝えるために加賀家16代当主
・利為(としなり)によって設立された
「前田育徳会」に所蔵されるものの多くが
この時に求めたものだといわれています。

 

 

 

デルフト焼 アムステルダム国立美術館所蔵

 

 

 

日本で初めてデルフト焼を注文した前田家

また加賀藩前田家は、日本で初めてオランダの
デルフト焼(「デルフト焼と日本の意外な関係」
の注文をしました。

 

その時の藩主は、利常の次の4代藩主・光高
でしたが、実際は顧問を務める3代藩主・利常
の指示によるものとみられています。

 

1640(寛永17)年に、長崎御買物師を通じて
オランダインド会社(「オランダ東インド会社
(VOC)」
)経由での発注でした。

 

 

こちらはオランダの注文により、有田で作られたお皿
オランダ東インド会社の「VOC」マークが入っている
「染付芙蓉手(そめつけふようで)」
江戸時代 伊万里焼(有田焼)
高さ6.4cm 径39.5cm 神戸市立博物館所蔵
(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

前田家の1639(寛永16)年12月31日付の注文書

 茶の湯のための茶碗 18個
  (見本として木型2個、粘度型2個添え)
 大皿 200枚、小皿 3種類をそれぞれ100枚
  (見本として粘度型が添えられ、
   絵付けの模様と色も細かく指定)

 

 

同、1641(寛永18)年の注文書

 ひし形台鉢 6個
 台鉢 30個
 大台鉢 5個
 方形台鉢 30個
 円形台鉢 30個

 

というようにかなり大量の注文であることがわかります。
さすがに加賀百万石ですね。

 

現代のようにメールや写真ですぐ確認できません
ので、木型や粘度型などの実物大の見本と、模様や
色彩などの丁寧な指示がなされているようです。

 

 

 

「和蘭陀白雁香合(おらんだはくがんこうごう)」
幅 9.2cm 奥行 5.3cm 高 10.6cm
デルフト焼 江戸初期 石川県立美術館所蔵

 

 

 

前田家がデルフトに注文した「和蘭陀白雁香合」

上の香合もデルフト焼で、前田家の発注により
作られたと思われている「和蘭陀白雁香合」です。
現在は石川県立美術館の所蔵。

 

全体的に乳白色の白釉が厚くかかり、
赤の絵の具でクチバシや目、頭の付け根の
2本の線、足などを彩っています。
足と足の間は青く見えるのは水を表しているとか。

 

石川県立美術館といえば野々村仁清の
「色絵雉香炉」が有名で、こちらは以前、
訪ねた時に見ましたが、白雁の方は、多分
見ていないのではないかと……、残念です。

 

 

「色絵雉香炉(いろえきじこうろ)」
幅 48.3cm 奥行 12.5cm 高 18.1cm
野々村仁清 17世紀 石川県立美術館所蔵

 

 

キリッとした仁清の「色絵雉香炉」に対して、
ふんわりとした優しさを感じさせる
「和蘭陀白雁香合」。
類品が少ないく貴重なものだということです。

 

 

 

長崎から金沢まで運んだ廻船問屋の「高島屋」

そうそう、言い忘れてしまいました。
前田利常が、長崎に御買物師を常駐させて
購入した品物を、長崎から金沢まで運んだ
のは廻船問屋の「高島屋」でした。

 

廻船問屋とは江戸時代に、荷物を送る人と海運業者
との間で、積み荷を取り扱う業者のこと。
「回船」の字を使うこともあります。

 

この廻船問屋の高島屋、現在もデパート
として有名なあの高島屋のことだそうですよ。
「和蘭陀白雁香合」も運んだのでしょうか?

 

 (参照 / 大橋康二「将軍と鍋島・柿右衛門」
             雄山閣 2007
  宮元健次
 「加賀百万石と江戸芸術 前田家の国際交流」
               人文書院 2002 )

 

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オランダ東インド会社(V O C)

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

 

 

独立戦争後にスペインが貿易禁止命令

現在はベルギーに属するアントワープの地に、イタリア
から陶工がやってきてマジョリカ焼を広めていた時、
オランダではスペインとの独立戦争が始まりました。

 

アルプス以北における最大規模の都市だった
アントワープは、多くの外国商人が居住し、
胡椒やシナモンなどを積んだポルトガル船が
日々、荷を降ろすといった賑わいをみせていた港。

 

しかし独立戦争の騒乱を避けようとした陶工たちは
次第に他の地に移って行き、マジョリカ焼の中心地
は、アントワープからハールレム、デルフトへ
移ることになります。
「『デルフト焼』と日本の意外な関係」

 

 

A「アントワープ」→H「ハールレム」→D「デルフト」

 

 

 

戦争の結果、1581年にオランダはネーデルランド
連邦共和国となる独立宣言をしました.

 

一方、スペインは1585年、オランダとの貿易の
全面的禁止とオランダ船拿捕の命令を出します。
これはポルトガル船から拿捕されることを意味します。

 

何故ならば当時のポルトガルは、1580年から
スペインのフェリペ2世を国王とする同君王国で
事実上スペインに併合されていたからです。

 

 

 

スペインとポルトガル船からの拿捕の危機

この結果、リスボンやアントワープに入港する
ことができなくなったオランの商人たちは
アジアの香辛料を手に入れる術をなくします。

 

オランダ人が、1602年と1604年にポルトガル船を
拿捕し、積んでいた10万点あまりの中国磁器を奪った
「『デルフト焼』と日本の意外な関係」)との事実に

 

なんと手荒なことを!と驚きましたが
それはこのような理由があったから。
オランダ船は、アジアの海でボルトガル船に
対して、公然と海賊行為を行なっていたのです。

 

 

 

 

 

1596年、ジャワに到着

リスボンやアントワープに入港できず、またスペイン
とポルトガルに拿捕される危険性があったオランダ
商人は、香辛料を直接手に入れることを考えます。

 

最初は北極海を抜ける北回りでアジアに行く
ことを試みましたが、あえなく失敗。

 

1596年に、希望峰周りでアジアに向かった
4隻の船がポルトガル船に見つかることなく
ジャワに到着すると、続けとばかりアジア
貿易を目指す会社ができはじめます。

 

 

 

 

 

 

各国にあった「東インド会社」

これらの会社が統合されて「東インド会社」になるの
ですが、東インド会社と名乗るものはオランダだけでは
なく、イギリスやデンマーク、フランス等にもあります。

 

「オランダ東インド会社」「イギリス東インド会社」
「デンマーク東インド会社」「フランス東インド会社」
というように。

 

「東インド会社」は西洋がアジアと貿易をするために
作った会社で、世界初の株式会社といわれています。

 

オランダ東インド会社が主に扱ったのが香辛料で、
イギリス東インド会社は綿織物でした。

 

 

 

 

 

 

「インド」とは「アジア方面」を指す

「東インド会社」という名前が紛らわしいのですが、
これはインドが作った会社でも、インドのみを貿易
相手とする会社でもなく、「インド」という言葉が
指すのは「アジア方面」という程度の意味です。

 

南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海にある群島に
「西インド諸島」がありますが、これはコロンブス
が、そこがインドだと勘違いをしたことから名づけ
られたものですし、アメリカ大陸の人々も
「インディアン」と呼ばれましたしね。

 

というわけで東インド会社の「インド」も
コロンブスのアバウトすぎる間違えからきた
名称だと思われ、それは「地中海から東の方」
や「アジア」を意味しています。

 

 

 

シナモン(桂皮)スティック

 

 

 

「西インド会社」は「アメリカ方面」

オランダの東インド会社は、希望峰から
マゼラン海峡までの、アジア地域の
商業活動を行う特許を持っていました。

 

ちなみに「西インド会社」もありましたが
この場合の「西インド」とはアメリカ大陸のこと。
超ヨーロッパ中心主義ですね。

 

とはいえこの理由は差別意識ではなく無知からきた
もので、あとで勘違いに気づいた後も、名称として
定着していたために変更しなかったのかもしれません。

 

 

 

シナモン(桂皮)の木

 

 

 

1602年設立の「V・O・C」

当時は、アジアと貿易をしよう思っても、リスクが一杯。
嵐などの天候の問題や、海賊の心配もあります。
そして何より莫大な資金も要します。

 

そのため出資者を募って、その資金で貿易をしようと
考えましたが、同じような考えから、いくつもの会社が
しのぎを削って競争するというのもまた問題があります。

 

ということで、政府から貿易をする独占権を得ること
になり、オランダは1602年、貿易政策としていくつか
の会社を統合して「東インド会社」としました。

 

東インド会社の正式名は「連合東インド会社
(Vereenighde OostIndische Compagnie)」。
略称を「V O C」です。

 

 

 

セイロンシナモン(桂皮) スティックとパウダー

 

 

 

「17人会」

正式な本社はありませんでしたが、アムステルダム、
ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、
ゼーラントの6支社から構成され、

 

アムステルダム支社の出資額が最も多かった
ことから事実上、本社の役割を果たしました。

 

大口出資者の76名が重役となって、そのうちの
17人で取締役会を作り、会社の経営方針をを決定。

 

17人会には、条約締結や戦争の遂行、要塞の構築、
貨幣の鋳造などの権限が与えられています。

 

 

 

 

 

 

植民地経営会社

と何やら物騒な権限が並んでいますが、海賊及び他国
の妨害も考えられることから、会社とはいえ「軍隊」
も持ち、必要とあらば戦争も厭いませんでした。

 

またその際に、いちいち本国に問い合わせるのも
大変ですので「外交交渉権」をも併せ持ち
その上、現地の統治も任されています。

 

つまり東インド会社とは、貿易商社というよりは
「植民地経営会社」だったというのが実態です。

 

 

 

 

 

 

日本との貿易を独占

希望峰からマゼラン海峡までの貿易独占権を得て
1619年には現在のジャカルタであるジャワ島の
バタヴィアに東インド総督の拠点を置きました。

 

ポルトガルやイギリスを抑えて
東南アジアの香辛料貿易に成功し
台湾、スリランカ、マラッカなども占領。

 

1609年からは日本の平戸に商館を置き
生糸や銀を中心として交易も行ない
1639年以降はヨーロッパ諸国の中では唯一
日本との貿易を独占することになります。

 

 

 

「染付芙蓉手大皿」江戸時代 伊万里焼
高さ6.4cm 径39.5cm 神戸市立博物館所蔵
(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

東インド会社の注文品

上の写真は、有田の伊万里焼で作られた芙蓉手の
お皿ですが、中心に「V」と、さらにその左右に
「O」と「C」がデザインされています。

 

これはオランダ東インド会社(V O C)の注文
によって作られたものと考えられています。

 

それまで磁器生産の中心だった中国が内乱で輸出禁止に
なったことから、それに代わるものとして有田で作られ
るようになったのがこのようなお皿だということです。

 

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