「古九谷」 前田家と鍋島家の繋がり

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次郎左衛門雛 加賀藩前田家「成巽閣」

 

 

 

古九谷と鍋島家の関係

今回は、前回の古九谷論争に関して
触れられなかった部分をご紹介します。
「古九谷論争『古九谷の真実に迫る』から」

 

九谷焼は、加賀藩とその支藩である
大聖寺藩の二つの前田家なくして語る
ことはできませんが、実はそれに加えて
もう一つの家が関わっていました。

 

それは日本初の磁器、有田焼をつくり
だしたともいうべき佐賀(肥前)藩の
「鍋島家」です。

 

 

 

伊万里焼「色絵蓮池翡翠文皿」
江戸時代 17世紀中葉 径36.4㎝ 日本民藝館

 

 

 

「鍋島焼」「伊万里焼」「有田焼」

この3つの名称について、混乱があると
いけませんので、最初に言葉の説明を
簡単にしてみましょう。

 

九州の有田で焼かれているものは
有田焼と呼ばれます。

 

江戸時代、有田焼は伊万里津(港のこと)
から出荷されたので「伊万里焼」とも
いうようになりました。
ということで「有田焼」=「伊万里焼」ですね。

 

また有田焼の中でも、鍋島藩が商品として
ではなく将軍家へ献上等のために、藩窯で
独自に焼かせたものを指して「鍋島焼」と
いいます。

 

(ただし「鍋島焼」の名称は大正時代以降に
できたもので当時、鍋島藩内では「大河内焼
(おおかわちやき)」「大河内御磁器」
といわれていたといいます)

 

現在は鍋島藩窯はありませんが
鍋島焼という名称は残り焼かれています。
今回のお話は勿論、鍋島藩窯の鍋島焼のこと。

 

 

 

鍋島焼「色絵宝尽文皿 」
ロサンジェルス・カウンティ美術館

 

 

 

磁器づくりのきっかけは鍋島直茂から

日本で初めて焼かれた磁器の有田焼は
鍋島直茂が1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵
の際に、捕虜として連れてきた朝鮮人陶工
・李参平(鐘ケ江三平)がつくりました。

 

佐賀藩の鍋島藩窯は、1652〜1654年
(承応年間)に有田の岩谷河内(いわや
ごうち)に御用窯を作り、1661〜1672年
(寛文年間)に伊万里の大川内山(おお
かわちやま)に移転しています。

 

1651(慶安4)年6月に、徳川家光の内覧
を受けた後、鍋島焼が正式に献上されて
いますので、その時点ではもう実質
鍋島藩窯はできていたことになります。

 

 

 

鍋島焼「青磁染付桃文皿」
元禄(1688-1704年)
口径14.7cm 高3.7cm 高台径7.4cm

 

 

 

佐賀藩 初代・勝茂、2代・光茂

朝鮮出兵の際に朝鮮人陶工を連れ帰った
鍋島直茂は、肥前佐賀の領主として鍋島家
の基礎を築いた「藩祖」とされており
初代藩主は、直茂の子・勝茂。

 

勝茂の正室は秀吉の養女で
側室は家康の養女です。

 

勝茂の子・忠直は20代の前半に亡くなった
ことから、2代藩主は、忠直の子・光茂が
継ぎました。
光茂の正室は米沢藩2代藩主
・上杉定勝娘の虎姫。

 

鍋島直茂(1538-1618) 朝鮮人陶工を連れてきた
1勝茂(1580-1657) 鍋島藩窯を作った
* 忠直(1613-1635)
2光茂(1632-1700)

 

 


鍋島焼「色絵野菜文皿」
江戸時代前期 出光美術館蔵

 

 

 

初代・勝茂の娘の子「虎」が、2代藩主・光茂の妻

佐賀藩初代藩主・勝茂の娘「市」は
出羽米沢藩・2代藩主の上杉定勝に嫁ぎ
「徳」と「虎」という娘をもうけます。

 

また定勝には、市が母親ではない
「亀」という娘もいました。

 

 

鍋島直茂(1538-1618)
   |
1勝茂(1580-1657)
   |
    _______
   |      |   米沢藩2代藩主
 忠直(1613-1635) 市ーーーー上杉定勝ーー◯
   |         | |     |
   |               
   |
   |
2光茂(1632-1700)ーー
           |
           |
      3綱茂(1652-1707)

 

 

市の娘「虎」は、2代藩主となった光茂
とはいとこにあたりますが、光茂に
嫁いでいます。

 

鍋島家からきた母の実家へ
戻ったかたちになりますね。

 

ここまででは前田家は登場していませんが
虎の姉・徳と、妹・亀の二人が
前田家に輿入れをしているのです。

 

しかも、大聖寺藩の初代と2代藩主という
兄弟に、徳と亀の姉妹が嫁いだという
ことになります。
それでは次に、前田家をみてみましょう。

 

 

九谷焼「百合図平鉢」
石川県九谷焼美術館蔵

 

 

 

九谷焼の窯を作った前田家

加賀藩前田家の4代藩主までの系図は以下の
通りで、前田利家の子・利長が2代藩主です。

 

3代藩主は2代藩主の弟・利常が継いでいます。
別の弟の利孝は、支藩の七日市藩の初代藩主。

 

加賀藩3代藩主の子、光高が4代で、
その弟・利次が、支藩である富山藩初代、
別の弟・利治も、支藩の大聖寺藩の初代
となっています。

 

 

      1前田利家加賀
          |
          |
  ________________________________________________ 
* |   |   |    |   |   |
2利長  利政  知好  3利常  1利孝 利貞
加賀)          (加賀) 七日市
             |
             |
      _______________
     |    |    |    |
    4光高  1利次  1利治  2利明
     (加賀)    富山  (大聖寺)(大聖寺
                    |
                   3利直
                  (大聖寺

 

 

濃いブルーで表示をした、「利治」が藩主の
大聖寺藩が、古九谷を焼いた窯を作りました。

 

この大聖寺藩は、1871(明治4)年の
廃藩置県で大聖寺県となるまで(後に
金沢県に編入され、石川県と改称)
14代にわたり前田家が治めています。

 

上の図から、七日市藩と富山藩を除いて、
九谷焼に関わる大聖寺藩と加賀藩のみ
を抜き出してみると下のようになります。

 

 

     1前田利家
       |
     ___________________
   |       |
   2利長    3利常 
           |
       __________
     |    |    |
    4光高  1利治  2利明
               |
              3利直

 

 

加賀藩の3代藩主・利常の子・利治が大聖寺藩
の初代となり、利治に子どもがなかったこと
から2代は、利治の弟・利明が継ぎました。

 

 

 

九谷焼「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)」
口径 18.9cm 底径 7.9cm 高さ 10.2cm
石川県九谷美術館蔵

 

 

 

加賀藩・利常の支援により大聖寺藩がつくった九谷焼

九谷焼の初期の作品、現在「古九谷」と
呼ばれているものが焼かれていたのは
大聖寺藩の初代・利治と、2代・利明の
兄弟の時代にあたります。

 

父である加賀3代藩主・利常の支援によって
利治、利明兄弟が関わったことになりますが
50年後に突然、窯は閉鎖。

 

その理由は不明ですが、大聖寺藩・2代藩主
の利明の死が影響したともいわれるほどで
加賀藩主の父と、子の大聖寺藩主の利治、
利明の強い関わりが伺えます。

 

 

 

「雛人形」次郎左衛門雛 佐賀藩鍋島家「徴古館」

 

 

 

「鍋島家」の二人の孫娘は「前田家」へ

古九谷の窯をつくった大聖寺藩の二人の
藩主に嫁いだのが、上杉定勝の娘でした。

 

初代藩主・利治の妻には「徳」、
2代藩主・利明には「亀」と。

 

家系図というのは、なんとも分かりづらいもの
ではありますが、前田家と鍋島家を並べて
書いてみました(余計、わからない?)。

 

 

 1前田利家
    |
    _______________
  * |      |
  2利長   3利常   
*        |
    ____________________________
*  |   |(大聖寺藩) |(大聖寺藩)
* 4光高  1利治ーー  2利明ーー
 

           
                          

 鍋島直茂             
  |                 
 1勝茂              
  |               
  忠直ーーー 市ーーーーーー上杉定勝ーー◯
  |         |  |       |
  |                  
** 
  |         
 2光茂ーー虎    

 

 

 


「雛人形」次郎左衛門雛  預玄院所縁(よげんいん)「成巽閣」
上の写真は「鍋島家」の、こちらは「前田家」のお雛様です

 

 

 

3姉妹の2人は「前田家」、1人は「鍋島家」へ

これを上杉定勝からみてみますと、娘の
徳の夫が、前田利治(大聖寺藩・初代藩主)
虎の夫が、鍋島光茂(佐賀藩・2代藩主)
亀の夫が、前田利明(大聖寺藩・2代藩主)
となります。

 

 

鍋島勝茂の娘
 市ーーーーーーーー上杉定勝ーーーーーー◯
  |      |      |
  徳ー前田利治 虎ー鍋島光茂 亀ー前田利明

 

 

鍋島光茂からいいますと
前田利治(大聖寺藩・初代藩主)
は、妻の姉の夫、
前田利明(大聖寺藩・2代藩主)
は、妻の妹の夫、ということ。

 

上杉家を間に挟んで、鍋島家と前田家の
深い繋がりが生まれることになったのです。

 

 

佐賀藩鍋島家の家紋「杏葉」

 

 

 

鍋島家と前田家と、それぞれの焼物

もっとも両家の親しい関係は、この婚姻
によって生じたというよりは、それ以前
からの近い関係がこれらの婚姻を成り立た
せたという方が正確かもしれません。

 

加賀藩・2代藩主の利長の後を、利常が
継ぎ、徳川秀忠の娘・珠姫を迎える際
にも、前田利長は慶事に必要な唐物を
鍋島勝茂に依頼しています。

 

前田利長とその子・利常が、鍋島勝茂
と親交があった事実に加え、複数の婚姻
によって結ばれた両家の繋がり。

 

それは、それぞれの焼物にも影響を与えた
と考える方が、むしろ自然に思えます。

 

 

 

古九谷「青手桜花散文平鉢」
石川県立美術館所蔵

 

 

 

スタートについた「古九谷論争」

これについて中矢進一(石川県九谷焼美術館
副館長)氏は「古九谷の真実に迫る」の中で
このように述べています。
多くの方も同じお考えと思われますので
これをご紹介して終わりましょう。

 

「それぞれを領する大名同士が姻戚関係に
 あったという歴史的事実、背景といった
 ものを踏まえた上での論考というものが
 必ずこれから以降は必要になってくるん
 だろうというふうに考えております」

「この問題は短兵急に結論を出す問題では
 なくして両産地の、いわゆる交流のもと
 にそういったものが生まれたんではない
 か、そしてこの加賀前田家という加賀文
 化を育んだ前だけを抜きにして、最高級
 品である古九谷の百花手だとかは(略)
 生まれてこなかったのではないかという
 指摘もされております。
 真の意味での古九谷、それは一体何か、
 これを探る作業が色々スタートしたんだ
 というふうにいえるのではないでしょうか」

 

     (参考 /「古九谷の真実に迫る」)

 

 

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マンションの通路でお葬式をする家族

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今日は、幽霊の話じゃないけどね

今日でお盆も終わります。
13日がお盆の入りで今日、16日がお盆明けですね。

 

一昨年の7月のお盆には、マンションのゴミ置場で私が
会った一家は幽霊だったのかもしれないという体験を、
「私が会ったのは……、幽霊? 存在しない居住者」

 

その2年前の8月15日には小学生の時に一緒に
暮らしていたイヌのお話をさせていただきました。
「死後にお別れを言いにきたイヌ『ペリ』」)

 

こうしてみると、お盆になると何とはなしにこのような
話をしてきましたが、今日は幽霊の話ではありませんよ。
でも、生きている人のお話でもないのです。

 

 

 

 

 

お隣に越してきた一家

その出来事があったのは今よりもう少し涼しい季節
だったと思いますが、とはいえ冬の寒い時期でも
なく、春か初夏の頃だったでしょうか。

 

当時、私が住んでいたマンションは1つの階に
十数軒が暮らしている外廊下式のよくあるタイプ。

 

建物はL字型に建っていて、「L」の字の縦の棒「 I  」と
横の「 _ 」がぶつかる部分にエレベーターがありました。

 

うちは「 _ 」の部分の一番右から一つ手前、つまり
うちの右の家が建物の端の部屋ということになります。

 

 

    □| |
    □|外|
    □|廊|
    □|下|____
    □|______|
        E   □□□□□● 

 Eはエレベーター がうちで、がお隣

 

 

お隣はマンションができた当初から、女性が一人で
お住まいでしたが数年後、54歳という若さで亡くなり
持ち主が移転して半年経つか経たないかといった頃。

 

今度のお隣さんは4人家族のようでした。
最初、家族構成の内訳は両親とすでに成人している
二人の子と思っていたのですが、どうも違ったようです。

 

男女2人ずつのきょうだいか、あるいは両親と男の子に
妻の妹が同居なのか、そのあたりはわかりませんでしたが
男女2名ずつで暮らしているように思われました。

 

私は、女性の一人暮らしだった前の住人の時に
そのお宅へ何度がお邪魔をしたことがありますが、
70㎡以上ある3 LDKですので、4人暮しも可能な広さです。

 

 

 

 

 

部屋の中と外廊下を隔てているのは窓ガラス1枚

わが家の間取りは、角部屋ではなく真ん中に挟まれている
もので、マンションの間取りとしてはよくあるタイプ。

 

玄関を入ると廊下があって、突き当たりはリビング、
リビングに接するように和室が一つありました。

 

玄関からの廊下を挟んで、両側に2つの部屋がある
という間取りも多いですが、うちは部屋は一つだけ
で、もう片方は大きめの収納という造りでした。

 

図が上手に描けなくてもうしわけないのですが
こんな感じでピンク色の部分がうち、緑色はお隣です。

 

 

______________
     ●●●● 外廊下
______________
 |    |玄関| | 玄関
 |    | |   (お隣の)
 | 部屋 ||  
 |    ||    |
 |    | |    |
       ↓
     リビング等

 

 

左にピンク色で「部屋」と書かれている部分が、外廊下
に接している玄関脇のうちの部屋で、外廊下に面して
窓があり、当然のことながら外の音はよく聞こえます。

 

考えてみますと玄関脇のこの部屋の窓のそばに
立っている時に、外廊下に人がいたとしたら、
ほんの数十センチ先に人がいることになるのですね。

 

そう考えると不思議な感じもして、ちょっと怖くも
ありますが、マンションとはそのようなものでしょう。

 

 

 

 

 

外がなんだか騒がしい?

そして問題の日がやってきました。
その日はお昼頃から、うちの玄関の前で
ざわざわと何やら人の気配がしていました。

 

実はその少し前にもお隣が、お風呂の取り替えと
思われる工事をうちの前でしていたことがありました。

 

うちのお隣は端だったこともあって、お風呂場工事の
作業は、お隣の玄関のドアの前というよりは
うちの玄関のドアと、先ほどのピンク色で示した
外廊下に面した部屋の窓の前ですることになります。

 

ですから問題の日に外で物音がした時も
また何かの工事をしているのか、あるいは
家具の搬入のために、一時的に外廊下で
作業をしている物音なのかと思っていました。

 

 

 

 

 

何人もの人がいる気配

ところがその物音はなかなか終わらないのです。
前回のお風呂場の工事の時よりもはるかに
長い時間が経っていました。

 

それだけではなく人の数も多くて、大きな話し声では
ないものの、かなりの人数がいることが伺えます。

 

しばらく時間が経過した頃に、一体、何が起きている
のかと様子を見るために、私は外廊下に面している
窓をほんの少しだけ開けてみました。

 

 

 

 

 

窓の少し先には……

わずか1,2センチほど窓を静かに開けてみると
そこには10人以上の人が立っていました。

 

幸いなことに、どなたも私が窓を開けた
ことに気づいていないようです。

 

窓の先にあるものを目にした時、最初はそれが
何なのか、私は全く理解できませんでした。

 

 

わかった瞬間、アッという言葉を
飲み込みながら、急いで窓を閉めました。

 

そこには青白い人の顔が……、
私が目にしたのは、亡くなった人の顔だったのです。

 

もう一度、先ほどの図を示してみましょう。
部屋から、マンションの外廊下に面している窓を開けて
みると、そこにあったのは「棺」が(●●●●)で
示した場所にあったのです。

 

 

______________
     ●●●● 外廊下
______________
 |    |玄関| | 玄関
 |    | |   (お隣の)
 | 部屋 ||  
 |    ||    |
 |    | |    |
       ↓
     リビング等

 

 

棺には、年配の男性が横たわっていました。
左側に頭があり、私の顔のほんの少し先に亡くなった
お隣の御家族の父親と思われる人の顔があったのです。

 

今考えてみましたら、左側は南なんですよね、
反対だと北枕なので、そうだったら私と顔が合うことも
なかったのに、などと今更のことを思ったもしましたが。

 

私はすぐに窓を閉めたものの思いもしなかった
成り行きに驚き、呆気にとられていました。

 

相手は亡くなっている方ですので、目が合う、という
ことはありませんでしたが、窓を開けてわずか
数十センチほどのところに棺があったのですから。

 

その上、本当に目の前に亡くなった方の顔が
あったとは、絶句というよりほかはありません。

 

 

 

 

 

狭い通路に置かれた棺

うちはごく普通のマンションでしたので
外廊下の通路の幅は、1メートルとちょっと、
あったとしても1,5メートルはないでしょう。

 

その狭い通路に、棺の頭の方をうちの窓の隣に、
足の方はうちのドアの前あたりに置いていました。

 

お風呂場の工事と違ってことはお葬式、
もし私が知らずに外出のためにドアを
開けていたら、どうなっていたのでしょう?

 

葬儀屋さんもいるようでしたので、その人が一言、
事前に言ってくれてもよかったのではないか
という気もしないでもありませんが。

 

 

 

 

 

家でお葬式をしない理由は?

しかし、それ以前に、家の外でお葬式をするなど
今まで一度も考えたことも聞いたこともありません。
しかも、お隣は6畳一間の狭い家でお葬式が
執り行えないというわけでもないのです。

 

また、たとえ部屋が片付いていなくて棺を置く場所
がなかったとしても、2時間もかからない間、
一つの部屋に荷物を積んでおくことも可能なはず。

 

廊下の1メートル幅の通路で、お葬式をしている
スペース分の広さを、家の中で作ることが
できないとは、とても思えませんでした。

 

 

 

 

お隣の御家族のうち、一番若い方にはお目にかかった
ことはありませんが、他の3人は50代から60代と思われ
今の若い人は……、という年齢でもありません。

 

何の心の準備もないまま、数十センチ程の位置で
亡くなった方の顔を目にするという驚きに加え、
父親のお葬式を外でするという
前代未聞の家族に、私は複雑な思いでした。

 

その時はうちにはうさぎの「あぷりしゅがぁ」が
いてくれましたので、棺の中の顔が目に入った後、
すぐ窓を閉めて、私はあぷりしゅがぁと
息を飲んで顔を見合わせていました。

 

 

 

 

 

色々面白かったマンションでしたが

そういえば、あぷりしゅがぁの前にうさぎの「ももち」
がいた時は、深夜の3時頃に知らない女の人が
ドアを蹴りながら叫んでいたこともありましたっけ。

 

「『なぜ人の家に入り込んでいるんだ、警察を呼ぶ』
とドアを蹴る、深夜に現れた見知らぬ人」

 

その人は、私が説明をしても、ハイヒールで
ドアを蹴るのを一向にやめる気配がなく
仕方なく警察に来てもらいました。

 

(といいますか、その女性が
「警察を呼べ!」と息巻いていたのですが)

 

 

 

 

考えてみると、色々と不思議な、普通はあまり
体験しないことがあったマンションでした。

 

通路でのお葬式があったから、というわけでは
ないのですが、ほどなく私は18年間住んだ
場所から越すことになりました。

 

入居する時は、一生暮らすつもりで
引っ越したマンションでしたが。

 

 

 

 

でも、まあ越したからこそ、このような話も
できるわけでして、まだ隣に住んでいたら
とてもブログには書けませんし。

 

何事も形ではなく心が重要だということに
異論はありませんが、それでもやはりマンション
の通路でのお葬式とは、お隣のお父さん、
ちょっと可哀想すぎる気がしますね。

 

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ネコやイヌまでをも供出させる戦争

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

「氏家法雄 ‏@ujikenorio」2015年6月7日のツイート

2年ほど前の6月7日に、氏家さんという方が
このようなツイートをしていらっしゃいました。

 

「昭和17年の夏、役場から突然
『猫を供出せよ』とのお達し…
『アッツ島を守っとる兵隊さんの
コートの裏毛になるんじゃ』

 

『女の気持ち:私の猫』毎日新聞2012年8月3日付。
タバコ吸いにリビング横切ったらタマが起きた。
俺は絶対いややで。」

 

毎日新聞に掲載されていた「私の猫」と題する
戦時中にネコを供出させらるという経験をなさった方
の投稿を、お読みになった氏家さんが呟いた言葉です。

 

「おれは絶対いややで」。
兵隊さんのコートの裏毛にするためにタマを
供出するなんて絶対に、絶対に「いややで」
と思われたのでしょう。

 

このツイートに添えられていたのが、このネコの写真。
そう思ってみるせいなのかもしれませんが、タマちゃん、
単に可愛いというだけではなく、いかにも何かを
言いたげなちょっと戸惑ったような表情にも見えます。

 

 

タマちゃん(写真/氏家法雄さんのツイッターから)

 

 

 

「毎日新聞」2012年8月3日の記事

氏家さんのツイートにタマちゃんの写真とともに
添えられていた毎日新聞の記事「私の猫」はこちらです。

 

 私の猫

「昭和17(1942)年の夏、岡山に住んでいた。
役場から突然『猫を供出せよ』とのお達しがあった。
うちの飼い猫は、私が物心ついた頃から我が家にいた。
名前はタマという。

 

学校から帰り、『タマ』と呼ぶと、『ニヤッ』と
答えるだけで、いつもかまどのそばで丸くなり
寝ている老いた猫だった。

 

「猫をどねーするん?」。
役場の人に尋ねると、
『アッツ島を守っとる兵隊さんのコートの
裏毛になるんじゃ。
アッツ島は寒うてのう。零下40度にもなるんじゃ。
お国の役に立つんじゃ、めでたい』と言った。
そして次の日の昼までに役場に連れてくるように
指示して、帰った。

 

私は母に言った。
『山に隠そうや。お墓の裏なら、誰にも
見つからんで……』。
しかし、母は首を横に振った。
『そねーなことをして見つかったら大事じゃ。
憲兵に連れて行かれる。軍のお達しじゃ、
聞かないけん』と言い返してきた。

 

私は泣きながら、近所の神社へ走った。
神社には大きな杉が6、7本あり、南側は川だった。
そこはどこからも見えないので、大声で泣いた。

 

『タマは殺されるんじゃ。
毛皮にされるんじゃ。可哀そうじゃ』。
升で量りたいほど涙が出た。
顔が腫れていた。

 

夕方、家に帰ると、タマはもういなくなっていた。
私のいない間に父が連れて行ったようだった。

 

アッツ島で日本軍は玉砕している。
私の猫はどうなったのだろう。
夏休みの時期になると思い出す。

         大阪府八尾市 主婦 79歳」

 

 

 

 

 

私の主治医の体験

何度見ても悲しすぎる毎日新聞の記事を読んで
私は同じような話を思い出しました。
かなり前に歯医者さんで聞いた話です。

 

こちらはネコではなくシェパードの
「ミラー」というイヌでした。

 

この話をしてくれた歯医者さんの父親も
歯科医で、ミラーという名前は診察の際、口の中に
入れて歯をみる鏡「ミラー」からつけたそう。

 

 

写真は本文とは関係ありません
草むらで保護されたイヌの
シーズー犬は子猫を守ってました

 

 

 

当時、5歳になったかならないかという年頃の
私の主治医は、毎日新聞に投稿していた女性より
少し年下と思われますが、今でもミラーのことが
心に大きな傷として残っているようです。

 

私自身はイヌやネコの供出の話は、その時に
初めて知って憤りや悲しみは感じましたが
それ以前に不思議な気もしました。

 

お寺の鐘などの金属類を供出させた話は
前に聞いたことがあります。

 

でもコートの裏毛のために、ペットのネコやイヌの
毛が必要なんて一瞬、信じられなかったのです。
まさか、そんなこと……、と。

 

 

 

 

 

「 NHK 北海道  NEWS  WEB」2017年8月11日

ですが残念ながらこの信じがたい酷いことは事実です。
昨日の「NHK  NEWS  WEB」にこのような
記事がありました。
「戦地に姿を変え送られた犬やネコ」(北海道 NEWS WEB)

 

この記事によりますと、イヌやネコの毛をコートの裏毛に
使用する取り組みは、北海道が全国に先駆けておこなった
ものでその後、全国に広がっていったということです。

 

北海道内では、1944(昭和19)年から人々に
供出を呼びかけ、終戦までにおよそ7万匹の
イヌやネコが処分されました。
この数は、あくまでも北海道内のみでの数字です。

 

 

 

 

そうして供出されたイヌやネコが、次にどのように
なるかを目撃した人の動画もつけられていました。
加藤光則さん、83歳の体験です。

 

当時10歳だった加藤さんは、後志の共和町に住んで
いましたが、学校からの帰り道で、皮を剥ぎ取られた
イヌやネコが積み上げられているのを目撃します。

 

「イヌやネコが雪の中に毛皮になって、丸裸になった
やつは片側にずっと分けて積み上げてある」という
加藤さんの次の言葉が最初、私には理解できませんでした。

 

 

 

 

「生きたまま血だらけで逃げたのは今でも目に
焼き付いている」という言葉なのですが、何度か
その部分を再生し、また文章を読み返すことでやっと
私は理解することができたのです。
このむごすぎる文章の意味が。

 

「毎日の生活の家庭の中に直接戦争が入り込んでくるんだと。
鉄砲の弾が飛んでくるとか爆弾が落ちるという形で入って
くるんじゃないんです」と語る加藤さん。

 

 

 

こちらは、目の見えない友達(左)を助けるイヌ

 

 

この動画には、供出の経緯について調べている
地域史研究者の西田秀子さんも出ています。

 

「撲殺されて毛皮にされて兵隊さんの防寒着になったり、
帽子になったりして戦場に姿を変えていくわけなん
ですけど、それが実際のリアルな戦争の姿ですよね。
その状況っていうのは想像してみなきゃならない。
そのために、体験者の話を実際に聞き取ってみなさんに
伝えていくことが私の仕事じゃないかと思っています」

 

と西田さんは話していました。

 

 

 

 

日常生活に戦争が入り込んでくることの恐ろしさ、
実際のリアルな戦争のむごたらしさ……。

 

それを私たちが実際に体験しないようにするには
何をしたらよいかを考える段階も過ぎて、今は
もう実際に行動する時期が来ているのかもしれません。

 

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