「氷川坂」「本氷川坂」「転坂」瑶泉院の屋敷を挟んで 赤坂の坂11

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151209motohikawazaka

 

 

瑶泉院の実家、三次浅野家の下屋敷

前々回は、瑶泉院の実家の上屋敷のそばにある「新坂」
を御覧いただきましたが、今日は同じく瑶泉院の実家
ではありますが、下屋敷のそばの坂を御紹介しましょう。

 

瑶泉院の実家、三次(みよし)浅野家の下屋敷を挟んで
「氷川坂」と「本氷川坂」の二つの坂があります。

 

次の地図でいいますと「M」のあたりが瑶泉院の実家
である三次浅野家の下屋敷があった場所です。

 

 

hikawakorobiM=瑶泉院の実家藤色が「氷川坂」
ピンク色が「本氷川坂」

 

 

Mの右斜め上に藤色で描いた線が「氷川坂」
反対側のピンク色の短い線が「本氷川坂」です。

 

 

 

「氷川坂」

「氷川坂」は距離も長く、傾斜も比較的緩やかな坂。
この写真は「氷川坂」の高い方から低い方を見て、
地図でいいますと右下から左上の方を撮った写真です。

 

 

151212hikawazaka「氷川坂」を高い方から見下ろした写真

 

 

地図でもおわかりのように、距離は結構長いの
ですが、直線ですので坂の終わりまで見えます。

 

こちらは「氷川坂」の反対側から
先ほどの写真を撮った場所を見て撮ったもの。

 

 

141212hikawazaka上の写真とは反対側の端から撮った「氷川坂」

 

 

う〜ん、こうして並べてみても
建物や雰囲気が、あまりかわりばえがしませんね。
うっかりすると同じ写真に見えてしまうほど。

 

でも「氷川坂」の途中にこんなに
美しいものがありましたよ。

 

紅葉するのを計算して壁の色を決めたのでは?
と思ってしまうほどの紅葉と壁の色でした。

 

 

151212hikawazakamomiji「氷川坂」の途中の紅葉

 

 

 

「転坂」

そうそう、「氷川坂」の途中といえば
もう一つ坂がありましたっけ。
先ほどの地図をもう一度御覧いただきましょう。

 

 

hikawakorobi氷川坂」の中ほどに直角にあるのが「転坂

 

 

藤色の「氷川坂」の真ん中当たりに
直角に水色の短い線がありますが
これは「転坂(ころびざか)」という坂です。

 

「氷川坂」から「転坂」を撮った写真がこれ。

 

 

151212korobizaka「転坂(ころびざか)」

 

 

よく人が転んだので「転坂」なのだそうですが
それでは他の坂は転ばなかったのかなぁ、
などと余分なことも考えたりして……。

 

この写真で「転坂」の全部が写って
しまうほどの短い坂です。

 

 

 

「本氷川坂」

さてさて、もう一方の「本氷川坂」ですが(何故か力が
入ります)「氷川坂」が三次浅野家・下屋敷の正面に
あたり「本氷川坂」は裏手にあたるのだそうです。

 

距離こそ「氷川坂」の半分ほどと短いものの、道が
クネクネとして傾斜もそれなりにある個性的な坂。

 

 

hikawakorobiM=瑶泉院の実家藤色が「氷川坂」
ピンク色が「本氷川坂」

 

 

地図でいいますと、ピンク色の「本氷川坂」の
左上から撮った写真が次のものです。

 

 

151212motogikawazakaここが「本氷川坂」の一番低いところ

 

 

坂の始まりの時点で既に道が曲がっている
のがおわかりでしょうか?

 

「本氷川坂」の標識のある石垣の
右奥方向に坂は続きます。

 

ほんの少し歩くとこんな風景が出現。

 

 

151212motohikawazaka

 

 

傾斜は結構ありますね。
そして道の白線が示しているように
また右側へ曲がっています。

 

次の写真は、今回ではなく2.3年前に撮ったもの
ですが、正面の白い建物のそばに咲いていた椿の花。

 

 

130312tubaki「本氷川坂」の途中に咲いていた椿の花

 

 

と寄り道をしているうちに、そろそろ坂の上に到着。
今度は赤い紅葉がお出迎え。

 

 

151212motohikawa「本氷川坂」の上り部分はここで終了

 

 

この写真の坂を上りきった直後に左に曲がります。
そして、短いけれど結構急な「本氷川坂」は終わります。

 

 

151209motohikawazaka鬱蒼とした木と風情のある塀が続く「本氷川坂」

 

 

 

一番好きな坂なので

電柱がなかったら「もしかしたら江戸?」
と思ってしまいそうな雰囲気のある佇まいです。

 

とはいえ、この写真の右の方向に
少し行きますと今、ニュースに度々登場
しているシリアの大使館があります。

 

瑶泉院の実家のお屋敷の正面だった「氷川坂」は正面
だった故に開け、「本氷川坂」は裏手で坂の傾斜も
あったため静かな趣を残す坂となったのだろうか
と考えてしまうほど、両者は全く表情の違う坂です。

 

 

151212motohikawayoru

 

 

実は「本氷川坂」は私の大好きな坂なので
ついつい写真も多くなってしまいました。

 

前回の「南部坂」で書き残したことを書くつもり
だったのですが今回も、またかなり長くなって
しまいましたので、次回に書かせていただきます、
本当にごめんなさい。

 

そんなに引っ張るほどのたいしたことではない
のですが、今回は「あぷりのお茶会 赤坂・麻布
・六本木」史上初の一度に3つの坂の御紹介
でしたので、さすがに無理でしたね。

 

なお今回、御紹介した3つの坂は
全て赤坂6丁目にある坂です。

 

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忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」はフィクション 「南部坂」赤坂の坂10

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151212nanbuzakaue

 

 

有名ですがフィクションです

前回の赤坂の坂は、忠臣蔵・元禄赤穂事件で
お馴染みの瑶泉院の実家の上屋敷のそばの「新坂」
を御紹介しました。

 

赤坂で瑶泉院に因む坂で一番有名な坂は
今日、御紹介する「南部坂」でしょう。

 

ドラマや映画では元禄14年の討ち入りの前日に
大石内蔵助が瑶泉院を訪れた「南部坂雪の別れ」
というシーンがあるそうです。

 

 

151209nanbuzakahyousiki 南部坂の標識

 

 

内蔵助は瑶泉院に会ったものの、廊下で吉良方の
スパイと思しき女中が聞き耳を立てているのがわかり、
討ち入りの話を伝えるどころか、討ち入りの意志など
ないと瑶泉院に告げるという切ない場面だとか。

 

ですが、これはフィクションです。
実際は討ち入り前年の11月に、内蔵助は預かって
いた拝領金を、「大事」のために使う許可を
瑶泉院から得るために訪れています。

 

その時に瑶泉院は、内蔵助に
茶縮緬の丸頭巾を渡しました。
内蔵助はその頭巾を討ち入りに持っていきます。
「最後の面会」

 

 

151212nanbuzakaここから「南部坂」が始まります

 

 

 

2つの「南部坂」

「南部坂」という名前の坂は、赤坂と麻布の
2つありますが、「南部坂雪の別れ」の
舞台は勿論、赤坂の方。

 

次の地図でいいますと下の右の当たり
首都高速道路の六本木二丁目の信号付近から
赤坂駅の方に向かっているピンク色の部分が
「南部坂」です。

 

 

nanbuzakaakasaka下の右寄りのピンク色が「南部坂
(地図/Mapionに加筆)

 

 

陸奥盛岡藩南部家のお屋敷がそばにあった
ため、「南部坂」と名づけられました。

 

現在の住所では、赤坂2丁目と六本木2丁目の境目に
ある坂で、首都高を渡ると、ANAインターコンチ
ネンタルホテルや、サントリーホールのある
アークヒルズがすぐそばにあります。

 

 

151212nanbuzaka

 

 

上の写真の右端の真ん中当たりに見えるのは
「南部坂」の石の標識。
アップしたものがこちらです。

 

 

151209nanbuzakasekihi石でできた「南部坂」の標識

 

 

これまで、いくつも赤坂の坂を見てきましたが
石でできた標識は初めて見ました。

これも忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」人気ゆえ
なのでしょうか?

 

この石の標識には「昭和四十五年十一月八日」
「永冨太道建立」と書かれているようです。

 

 

 

浅野家は 笠間藩  →  赤穂藩

南部家が麻布に移転する前、その地には
瑶泉院の夫の家である、播州赤穂藩の
浅野家の下屋敷がありました。

 

もっとも忠臣蔵・元禄赤穂事件で有名な
浅野内匠頭の浅野家が播州赤穂藩になったのは
南部家が麻布に来るほぼ十年前のこと。

 

それ以前は日立笠間藩でしたが、正保2(1645)年
に、赤穂に領地替え(転封)になっていました。

 

ちなみに麻布の浅野家の下屋敷のあった場所は
現在は有栖川宮記念公園(ありすがわみや
きねんこうえん 港区南麻布5-7)。

 

 

151212nanbuzakaue「南部坂」の上から 正面はアークヒルズの森ビル

 

 

 

浅野家と南部家のお屋敷を交換(相対替)

というわけで明暦2(1656)年2月に
赤穂藩と南部藩が、それぞれの下屋敷を
交換することになりました。
この等価交換を「相対替」というそうです。

 

明暦2(1656)年
陸奥盛岡藩南部家  赤坂 → 麻布
播州赤穂藩浅野家  麻布 → 赤坂

 

赤坂から麻布へ移った南部家のそばの坂も
また「南部坂」と呼ばれるようになったために
二つの「南部坂」が生まれたのです。

 

 

nanbuzaka2上の右にある 南部家→浅野家 ピンク色が赤坂の「南部坂」
下の左にある 浅野家→南部家 ピンク色が麻布の「南部坂」

 

 

なお1701(元禄14)年の、元禄事件で浅野内匠頭は
切腹を命じられ、赤穂浅野家は断絶しましたので
お屋敷もなくなっています。

 

しばらくは空き地だったようですが、後に5千石の旗本
柴田家のお屋敷となり、明治まであったということです。
(「江戸坂見聞録」松本崇男)

 

 

 

明治期には「難歩坂」とも

赤坂の方の「南部坂」は明治の一時期には
坂が急で歩くのが大変、という意味で
「難歩坂」ともいったそうです。

 

ちなみに現在は、「南部坂」の坂上の西側は
アメリカ大使館宿舎になっていますが、今
もしこの坂に名前をつけるとしたら、さしずめ
「アメリカ坂」とでも命名するのでしょうか。

 

アメリカ大使館宿舎は「南部坂」に隣接して
いますが、南部家のお屋敷はここから
少し離れた場所にあったようです。

 

 

151209nanbuzaka 前の写真と同じ場所を夜に撮ったもの

 

 

「南部坂」と南部家の屋敷が離れていたことは
ともかく、私には少々気になることがあります。

 

フィクションなのですから他の坂にすることも
できたのに、「南部坂雪の別れ」の舞台を
なぜ「南部坂」にしたのかということ。

 

長くなりましたので、それについては
次回お話ししましょうね。

 

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「新坂」カナダ大使館から瑶泉院の実家まで 赤坂の坂9

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150924sinzaka

 

 

新しくできたから「新坂」なのですが…

これまで「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」では
8つの赤坂の坂を御紹介してきました。

 

次の地図では、右上の方に赤坂見附駅があり
そこから左下に向かってある道が青山通りです。

 

 

sinzaka

 

 

この青山通りから南(地図ですと下)に向かう
3つの坂は既に御紹介した坂です。

 

Aは「牛鳴坂」Bは「弾正坂」
そしてCが「薬研坂」でした。

 

今日、御紹介するDの「新坂」は、右側の3つの坂と
違い、直接に青山通りとは接してはいません。

 

青山通りに面しているカナダ大使館の
西側の道を行きますと、カナダ大使館の
敷地の途中から「新坂」が始まります。

 

 

 

始まりはカナダ大使館の隣り

この写真で左に写っているのはカナダ大使館です。
ここから緩やかな下り坂になります。

 

 

150924sinzaka

 

 

写真を撮った日は生憎の雨だったのですが
こうして見ますと、「新坂」に雨は似合う
ような気もしないではありませんね。

 

写真の左側、カナダ大使館のある方が
赤坂7丁目で、右側は8丁目です。

 

 

150924sinzakayurai

 

 

 

カナダから江戸へ?

さてこの「新坂」、今まで御紹介した坂の命名とは
ちょっと異なり、名前に「新」とついていますが
では一体、いつできたのかといいますと、

 

これがなんと、元禄12(1699)年。
300年以上も前の江戸時代のことなのです。

 

「なんだ、ちっとも『新』じゃないじゃない」と
お思いでしょうが、できた当時はそれがいつであれ
「新」ですものね、当たり前ですが。
と変に納得してしまった「新坂」ではありました。

 

なお、標識にも書いてありますが、「新坂」は
「しんざか」あるいは「しんさか」ともいうようです。

 

 

151027sinzaka

 

 

 

終点は瑶泉院の実家の上屋敷があった場所

上の写真は「新坂」を下ってきた場所
ですが、この辺りで坂は終わります。

 

ここから「新坂」とは直角に、写真でいいますと
手前側の左右に道が延びています。

 

このあたりは、いわゆる忠臣蔵といわれる
元禄赤穂事件で有名な、浅野内匠頭の妻
であった瑶泉院の実家があった場所。

 

瑶泉院の父親・長治は、浅野本家の長晟(ながあきら)
の長子でしたが、母親が正室ではなかったため
弟の光晟が本家を継ぎ、長治は備後・三次(みよし)
の城主となりました。

 

 

130421aguri20134三次浅野家(瑶泉院の実家)の上屋敷跡付近

 

 

元禄赤穂事件(忠臣蔵)直前にできた坂

その三次浅野家の上屋敷のあった場所が
「新坂」の突き当たりの場所一帯なのです。

 

「新坂」の標識によりますと元禄12(1699)年に
新しくできた坂ということです。

 

元禄赤穂事件(忠臣蔵)は元禄14(1701)年
の3月14日に起こりました。
これは旧暦ですので、現在の暦でいいますと4月21日。

 

そして義士達の討ち入りは翌、元禄15年12月14日。
これも現在ですと1月30日ということですので
1702年ではなく1703年ということになります。

 

あの討ち入りから今年で三百十余年の年月が流れました。
「新坂」は元禄赤穂事件(忠臣蔵)
直前にできた坂だったのですね。

 

瑶泉院もこの「新坂」を歩いたのでしょうか。
まだ「あぐり」という名前で呼ばれていた頃に。

 

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