乃木希典から命名された「乃木坂」の昔の名前は「幽霊坂」 赤阪の坂7

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150923nogitei

 

 

乃木坂駅の住所は南青山

ここ数回「赤阪駅」を通っている東京メトロ
千代田線のお話をしてきましたが、千代田線の
「赤阪駅」のお隣は「乃木坂駅」です。

 

ということで、今日は「乃木坂」のお話をしましょうね。
「乃木坂」は駅名でもあり、坂名でもありますが
「赤阪」は駅名ではありますが、坂名ではありません。

 

「乃木坂」という坂はありますが
「赤阪」という坂はありませんから。
(ただし「『赤坂』の地名のもととなった
『紀伊国坂(茜坂)』」
という坂はあります)

 

一方、「赤阪」という住所表記はありますが
「乃木坂」という住所表記はありません。
と少々ややこしくなってきましたので
早速お話を始めましょう。

 

 

nogizaka左下にある乃木坂駅のそばのピンク色の部分が「乃木坂」

 

 

「乃木坂駅」の住所は南青山 1 – 25 – 8 であり
赤阪ではありませんが坂の方の「乃木坂」は
赤阪8丁目と9丁目の境の場所にあり
地図にはピンク色で示してあるところです。

 

ひらがなの「く」の字といいますか
アルフェベットの「 L 」といいったらいいでしょうか
とにかくそれらの中心から撮った写真がこれです。

 

 

150923nogizakkadoこの写真の中心から、右と左に広がっている「乃木坂」

 

 

写真右の方の道は、地図でいいますと下の方に進む道、
外苑東通りで、六本木駅に向かっています。
そちらを向いて撮った写真がこれです(↓)。

 

 

150923nogizaka1つ上の写真の、右に伸びている方の「乃木坂」(六本木方面)

 

 

 

少しだけ上り坂になっているのがおわかりでしょうか?
写真ですとあまり高低差を感じないのですが
実際はもっと坂という感じがします。

 

この写真の右側に見えているのが、乃木坂陸橋。
こちらは赤阪出口になります。

 

この陸橋の上から、「く」の字の上の部分の
「乃木坂」を撮った写真が次のもの。

 

 

150923nogizakarikyoこちらは左(赤坂駅方面)へ伸びている「乃木坂」

 

 

 

こちらは赤坂通りで、赤阪駅や赤坂サカスへ向かう道。
乃木坂駅と赤阪駅は歩いてもすぐの距離です。

 

写真では見にくいのですが、中央当たりに
1ミリ ×3ミリほどの黒っぽく見えている
ものは、赤坂サカスのビッグハット。

 

 

TBSbighut140618赤坂サカスの愛称「ビッグハット」

 

 

 

「乃木坂」の昔の名前は「幽霊坂」

「乃木坂」は江戸時代には、「幽霊坂」や「なだれ坂」
「行合坂」、または「膝折坂」ともいわれていたそうです。

 

ただ「幽霊坂」という名前の坂は「乃木坂」に限らず
港区のお隣千代田区富士見町、同じく神田淡路町、
港区では三田、その他北区、新宿区、新宿区、
文京区と「幽霊坂」はいくつもあるとか。

 

これらはみんな江戸時代に名づけられたそうですが
『江戸の坂 東京の坂』(有峰書店・横関栄一著
昭和45年刊)によりますと、幽霊が出ることで
有名だから、ではないということのよう。

 

江戸時代の江戸っ子は(この言い方は「馬から
落ちて落馬」してる?)木々がうっそうとして
寂しく「いかにも幽霊が出そうだなぁ」
という場所を幽霊坂と名づけたのだそうです。

 

だから、あちらこちらにあるわけ。
ということは、幽霊が出るわけではないので
ちっとも恐くないですね。

 

 

nogizakaピンク色の「く」の字形に見えるのが「乃木坂」

 

 

 

「幽霊坂」から「乃木坂」へ

「幽霊坂」と呼ばれていた坂が「乃木坂」と命名
されたのは、1912年・大正元年9月のことでした。

 

この付近に住居を構えていた大日本帝国陸軍の重鎮で
学習院院長でもあった乃木希典の殉死を悼み
赤阪区議会が議決したのです。

 

この写真は旧乃木邸の門から垣根の部分を映したもの。
写真の右端に見えているのは、赤煉瓦で作られた厩です。
とても立派で、うちよりはるかに大きい!

 

 

乃木希典邸

 

 

 

駅名も「乃木坂」に

「赤阪」は住所としても使われている地名ですが
「乃木坂」という住所表記上の地名はありません。

 

ですがこの1912年の赤阪区議会での
「幽霊坂」→「乃木坂」の命名変更により
それ以降このあたり一帯は「乃木坂」と
呼ばれるようになったということです。

 

その後の1972(昭和47)年、千代田線の駅名と
しても「乃木坂」は採用されることになります。

 

住所表記上は存在しないとはいえ、「乃木坂」は
確実に市民権を得た地名となっているのですね。

 

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「丹後坂」の名は徳川綱吉の野犬収容所の管理者・米倉丹後守から  赤坂の坂6

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150916tandozaka

 

 

赤坂で一番短い坂

ここのところ「弾正坂」「九郎九坂」「牛鳴坂」
近い場所で隣り合っている3つの坂を御紹介しました。

 

 

usinakizaka

 

 

ピンク色が「弾正坂(だんじょうざか)」
紫色が「九郎九坂(くろぐざか)」
そして緑色で示した部分が「牛鳴坂
(うしなきざか)」でしたね。

 

 

150827usinakizakarakuda「牛鳴坂」にいる金色のラクダさん

 

 

この緑色に示した「牛鳴坂」の終わり、3匹の
ラクダのオブジェを通り過ぎずに、写真の左
(地図でいいますと赤坂サカス方面)に
曲がって少し歩いたところにあるのが
今日、御紹介の「丹後坂」です。

 

「丹後坂」は赤坂の坂の中で
一番短い坂かもしれません。

 

地図の真ん中あたりにピンク色に
示した部分が「丹後坂」です。
黒い色で矢印をつけてみましたが
おわかりでしょうか?

 

 

tandozaka黒い矢印の先にあるピンク色が「丹後坂」

 

 

 

米倉丹後守の御屋敷のそばの坂

住所は、赤坂4丁目2番と、4丁目5番の間 。
長さは、なんと40メートルという短さですが
高低差は10.08メートルもある坂です。

 

距離は短く傾斜はかなり急なために
「丹後坂」は階段になっています。
標識に記されているのは次の言葉です。

 

「元禄(1688~)初年に開かれたと推定される坂。
その当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守
ともいう)の邸があった。」

 

 

150916tangozakaue「丹後坂」と書いてある標識、ちょっと見にくいのですが

 

 

ということは米倉家の御屋敷は、この写真で
いいますと、左側にあったということになりますね。

 

冒頭に付けた写真は丹後坂を下から見上げたもので、
その階段を登りきった「丹後坂」の終わり(頂上?)
から下を向けて撮ったのがこの(↑)の写真です。

 

 

 

600石からわずか十数年で1万5千石の譜代大名に

米倉家の祖先は甲斐武田氏の士族で
竹田家の滅亡後は徳川家に仕えています。

 

 

 

 

米倉昌尹(まさただ)が48歳で家督を
継いだ時は600石程の旗本でした。

 

しかし、わずか10数年後の元禄12年(1699)
には1万 5千石の譜代大名になっています。

 

その理由は、5代将軍・徳川綱吉に
認められた昌尹(まさただ)が
御目付 → 御側衆 → 若年寄 → 側用人
と異例の出世をしたからです。

 

 

150916tangozakakaidan「丹後坂」の階段の一番上から下を見下ろしたもの

 

 

 

昌尹の3代後の藩主は、柳沢吉保の六男

犬公方といわれた綱吉は「生類憐れみの令」
を発布したことで有名です。

 

元禄8(1684)年には江戸郊外の中野の地に
16万坪にも及ぶ野犬収容所をつくり
そこには10万匹の犬がいたといいます。

 

この収容所の普請惣奉行を担当して
いたのが昌尹(まさただ)でした。
犬小屋の維持、管理の業績などが
認められた昌尹は出世街道をばく進。

 

 

 

 

またそれだけではなく当時、権勢を誇っていた
柳沢吉保と米倉家とは共に甲斐出身でもあり
地縁血縁で結ばれてもいたようです。

 

米倉家の家督は、
昌尹(まさただ) →  昌尹の子(昌明)→  孫(昌照)
へと受け継がれますが、共に30歳で早世したために
昌照の次は、7歳だった養子の忠仰が跡を継ぎました。

 

この忠仰の実の父親が柳沢吉保です。
柳沢吉保の六男だった忠仰は、5歳で米倉家と
養子縁組をしていますので、いかに両家の縁が
深かったかがわかります。(「ぶらり金沢散歩道」)

 

 

 

 

なお、江戸郊外の中野に野犬収容所が
できたのが元禄8(1684)年ですが、
「丹後坂」の標識に記載されている文章には
このようにあります。

 

「元禄(1688~)初年に開かれたと推定される坂」

 

ということは、単に米倉家の御屋敷があった場所
というだけではなく、「丹後坂」ができたまさに
その時に昌尹(まさただ)は綱吉の命を実行する
野犬収容所の取締役(?)でもあったわけですね。

 

 

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赤坂の名所・史跡、38位!

この「丹後坂」は、旅行クチコミサイトの
「フォートトラベル」によりますと
赤坂で38位の名所・史跡なのだそうです。

 

「名所・史跡」というのもちょっとおかしいですが
38位という微妙な数字に思わず笑みがこぼれます。

 

歴史に興味をお持ちで、米倉丹後守のお屋敷跡
というだけで感無量、という方は別にしますと
「丹後坂」を赤坂の名所として「どうぞ、見に来て
下さいね、とはちょっと言いがたい地味な場所。

 

ではありますが、何気ないようで
趣があり、懐かしさを感じさせる
「丹後坂」が私はとても好きです。

 

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ラクダがいるけど「牛鳴坂」 赤坂の坂5

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路面の悪さに牛が鳴く

赤坂の坂3回目は「弾正坂」を、
4回目は「弾正坂」と同じ場所から始まっている
「九郎九坂」
を御紹介しました。

 

ピンク色が「弾正坂」で、紫色が「九郎九坂」でした。
そして今日、御紹介するのは
緑色で表示した「牛鳴坂(うしなきざか)です。

 

 

usinakizakaピンク色「弾正坂」紫色「九郎九坂」緑色「牛鳴坂」

 

 

「弾正坂」は青山通りを越えて、そこからまた
「弾正坂」が続いていますが、今日の「牛鳴坂」は
「九郎九坂」とは少々場所も離れていますので、
独立した「牛鳴坂(牛啼坂)」の名を持っています。

 

 

 

短い坂

青山通りから「牛鳴坂」に入ったすぐの場所がこの
写真で、住所は赤坂4丁目1番から8番の間になります。

 

 

150827usinakisaka赤坂4丁目7-16にある「牛鳴坂」

 

 

この写真で、道の突き当たりに見えるのが
冒頭にあげたラクダが3匹いる場所で
「牛鳴坂」はそこで終わります。

 

もし「牛鳴坂」がここで終わらずに、「弾正坂」
まで延びていたら「弾正坂」「九郎九坂」、
「牛鳴坂」の三つの坂で二等辺三角形ができたのに
残念(!)ですね。

 

 

usinakizakaピンク色「弾正坂」、紫色「九郎九坂」緑色「牛鳴坂」

 

 

 

悪路だった「牛鳴坂」

 

「牛鳴坂」の名前の由来が
次のように説明されています。

 

「赤坂から青山に抜ける厚木道で、路面が悪く
車を引く牛が苦しんだため名づけられた。
さいかち坂ともいう。」

 

 

150827usinakizaka

 

 

と書いてありましたが、牛さん、可哀想だなぁ〜。
あまり泣き言をいわず、黙々と働くあの牛達が
鳴かずにはいられないというのは、よほどの
ことだったに違いありませんからね。

 

さほど急な坂ではないのに、なぜ牛が鳴くのかと
思っていたのですが、路面が悪いという理由
だったのですね、納得。

 

ところで標識の説明文の中に「厚木道」
という言葉がありますが、「厚木道」
とは厚木街道のことだそうです。

 

今、地図で神奈川県の厚木街道から
赤坂まで、ずっと辿って確認しました。
(車を運転しないので、道の名前がわからないもので)

 

 

 

 

 

ラクダのオブジェ

「牛鳴坂」という名前以上に不思議なのが
このラクダたちなのです。
3匹の黄金のラクダの存在。

 

結構大きくて、3匹とも帽子なんか
かぶっちゃってます。

 

 

150827usinakizakarakuda

 

 

数年前にうちの郵便受けに投函されていた地域
情報紙「MYタウン  赤坂  青山」によりますと
(今までとってあったのだよ、この日のために)。

 

80年代のバブル全盛期、この近くに
ディスコがあったそうな。

 

六本木の「ジュリアナ」は有名ですが
赤坂にも「ムゲン」、「HWITE HOUSE」
というディスコがありました。

 

その「 WHITE HOUSE 」が
     ↓
「 BLACK  &  WHITE  」
     ↓

   「キャメル」

と名を変えて営業していたそうですが
現在では赤坂彫金学園になっている

 

と「MYタウン  赤坂  青山」には書いてあったので
すが何か違うような気がして調べてみましたら、赤坂
彫金学園は、既に2012年3月で閉校していました。

 

 

 

 

 

謎の黄金のラクダ

そこでまた、ラクダに戻りますが
「MYタウン  赤坂  青山」20号によりますと、

 

「どうしてこのオブジェを建てたのかは、
元のオーナーも亡くなり、所有者も変わり、
詳しいことはわからなくなってしまいました。」

 

ということだそうですよ。
お店の名前が「キャメル」という名前だった
当時に作られたものなのでしょうか?

 

そんなに昔のことでもないのに、
そして黄金のラクダはまだ健在なのに、
わからなくなってしまったとは不思議ですね。

 

 

150827usinakisaka

 

 

 

今に残るは「牛鳴坂」の名前のみ

たった30年ほどしか経っていないのに、ディスコは
次々と名前を変え、そこにいる3匹のラクダの由来
もわからないままに、その場所は赤坂彫金学園に。

 

今は、その赤坂彫金学園もなくなってしまいました。
人の世の移り変わりの早さには驚くばかり。

 

そして今は、路面の悪さに牛も鳴く、と言われて
名づけられた「牛鳴坂」の名前が残るのみです。
それにしても牛さん、可哀想だなぁ……。

 

 

 

 

(2017年8月9日:追記)

写真に写っているラクダさんですが
この夏、解体されてしまったそうです!
「ご近所さん」さん(!)にコメントで
教えていただいて驚いています。
寂しいなぁ……、

 

実は少し前に、60年以上前からこの近くにお住まい
だった方に、この辺りのことを聞いたばかりでした。
その方は数ヶ月前に赤坂を離れてしまいましたので
ラクダさん解体を早速、教えてあげなくては!

 

「ご近所さん」様、ありがとうございました!

 

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